老いは政治的である

島貫泰介

2021年1月31日、「<老い>を巡るダンスドラマトゥルギー公開研究会」の発表をオンラインで聴講した。今年度は全四回の研究会を行なってきたとのことで、この日は北京の演出家・振付家メンファン・ワンを招き、中国国立バレエ団を引退したバレエダンサー二人とともに制作した新作『WHEN MY CUE COMES, CALL ME, AND I WILL ANSWER』(2019-2020年)についてのプレゼンテーション、そして研究代表者であるダンス研究者の中島那奈子(中島は『WHEN MY CUE COMES-』のドラマトゥルクでもある)との対話が行なわれた。

研究会の活動に先行して上梓された中島那奈子・外山紀久子編著『老いと踊り』(勁草書房、2019年)のあとがきで、外山は「老いと踊り──この魅力的ではあるがトリッキーなテーマに最初に接したときは、実はむしろ戸惑いや躊躇いの方が大きかった(略)西洋の他者を日本が代表することへの疑いもあったかもしれない」と述べている。たしかに同書で扱われているのは欧米圏のピナ・バウシュやイヴォンヌ・レイナーらと、それらに並置される日本の花柳寿南海や大野一雄らであり、アジア、アフリカ、南米圏などの例は扱われていない。その意味でも、中国の近代化に深く関わるバレエとその元ダンサーたちの身体と記憶を扱ったワンの『WHEN MY CUE COMES-』は、同研究の視野を拡張させるものとして有意義だろう。

日中戦争以降の中国舞踊史の変遷は特殊だ。その理解のための参考としてリー・ツンシン『毛沢東のバレエダンサー』(徳間書店、2009年)を紹介したい。『小さな村の小さなダンサー』(2010年公開)の邦題で映画化もされている同書は、文化大革命後の北京でバレエを学び、のちに留学先であったアメリカに亡命したバレエダンサーによる自伝である。

リーが北京舞踏学院に入学した1972年は、毛沢東の妻である江青ら四人組が権勢を誇った時期であり、バレエのテクニックにカンフーや京劇の要素を組み込み、さらにプロップとして銃や手榴弾が登場するような政治的題材を扱う「革命バレエ(革命歌劇)」の創造が求められる時代であった。

山東省の貧しい農村出身であったリーにとって、毛沢東思想のもとで豊かな教育と食事に恵まれた学院での日々は厳しくも得難いものであった。だが、西欧芸術の知識を持つという理由だけで反革命分子や右派の嫌疑をかけられ農村に下放される教師たちの姿や、資本主義社会への批判のための教材として見せられた『ジゼル』の芸術性、アルブレヒト役のウラジミール・ワシリーエフの踊りの美しさに魅了されたリーは、次第に自分を取り巻く環境に疑問を持ちはじめる。

1976年の毛沢東の死と共に、江青ら四人組は失脚。副主席として中国共産党の実権を掌握した鄧小平による資本主義陣営との宥和政策が進むと共に、舞踏学院でも西洋化が急速に進んだ。優等生として海外留学の機会を得たリーも、自由で開放的なアメリカに魅せられ、ヒューストン・バレエ・アカデミーで知り合ったフロリダ出身のダンサーと電撃的に結婚。それを理由にして、ジョージ・ブッシュ副大統領(当時)とヒューストン・バレエ団の理事であったバーバラ夫人の助力で亡命を果たす……というのが同書のおおまかなあらすじだ。揺らぐ歴史と政治情勢の間隙を巧みにすり抜け、生き延びたダンサーの物語である。

北京舞踏学院と中国国立バレエ団の違いはあるが、『毛沢東のバレエダンサー』と『WHEN MY CUE COMES-』の時代背景は、多くの点で共通している。

後者の上演当時59歳であったリョウ・グェイリン(LIU Guilin)が国立バレエ団に入団したのは文化大革命の直後。革命バレエ全盛期にダンサーとしてのピークを迎えた彼女の記憶に強く残っているのは、『紅色娘子軍』のような革命バレエの代表的演目よりも、バレエ団での教師にあたるツァオ・ズューグアン(CAO Zhiguang )から教わった『ジゼル』であったという。『毛沢東のバレエダンサー』のなかで、リーは『ジゼル』から自身の環境を概括するきっかけを得たが、リョウの場合は、自身が学んだ『ジゼル』の型や振付に対して、時勢の変化に応じて批判的なポジションを取らざるをえなかったという。

メンファン・ワンのVimeoでは『WHEN MY CUE COMES-』のダイジェスト映像を視聴できる。同映像において『ジゼル』は重要なモチーフになっているが、それは中国武術を想起させる有機的で流れるような所作と奇妙に混ざり合って見える。

クラシック・バレエの訓練では踊り手は体の関節を外側に向けて伸ばさなければならないが、京劇ではその逆の動きが要求される。バレエでは流れるように、やわらかくステップを踏む必要があったが、京劇では鋭く、力強いしぐさをしなければならない。(『毛沢東のダンサー』p.151)

この京劇のムーブメントの記述に添えば、『WHEN MY CUE COMES-』での動きは鋭くも力強くもない。しかし、ワンのプレゼンテーションでの発言「社会主義的規律が内在化した身体を、作品のプロセスを通してほぐし、解放していく」を踏まえれば、「流れるように、やわらかく」とリーの自伝内で表現される西洋由来のバレエのメソッド、元ダンサーたちの身体的な衰え、アレクサンダー・テクニークやフェルデンクライス・メソッドに基づくソマティックによって、2人の心身に記憶された模範的で革命的な近代中国の舞踏の硬直性が溶解されていくプロセスが、舞台上に現前していることを了解できるだろう。

この他にも『WHEN MY CUE COMES-』では、現実の師弟関係を男性と女性でその役割を交換して演じ直すといった解体・再構築もドラマに組み込まれているように思われたが、日本舞踊や舞踏のように、老いを技巧的・芸術的な優勢の裏付けにするのとは異なり、同作では既存の社会関係や内面化されたイデオロギーを瓦解させるための鍵概念として、老いが用いられているのではないだろうか。

中島那奈子が表象文化論学会ウェブサイト『REPRE』に寄せた「ダンスを作ることとバラすこと──ダンスドラマトゥルクの実践と研究」(2020年10月発行)には「高齢のダンサーは、バレエに限らず、中国の舞踊には登場しない」との記述がある。また、ワンによると、国公立以外のバレエ団が存在しない中国ではバレエダンサーになること自体が狭き門であり、通常35歳で引退したダンサーは団内の指導職や技術職に就くのが一般的なため、それ以上の年齢の舞踊を観客が見る機会もほぼ存在しないのだという。そのようにして演者からも観客からも遠ざけられ不可視化される「老い」とは、何を意味しているのだろうか? 逆に、老いを排除することで際立つ「若さ」は何を象徴するのだろうか?

『WHEN MY CUE COMES-』は北京ゲーテ・インスティチュートでのレクチャー&ショーイングを経て烏鎮演劇祭で世界初演を迎え、その後、北京と上海でも上演された。ワンによると、最初のショーイング時に観客から老衰を意味する「衰老(aged)」の言葉を作品に用いることについての消極的なフィードバックがあったという。それを受けて、ワンと中島は「衰老」を「年を重ねる」を意味する「変老(aging)」に改め、上海公演を行なったそうだ。それによって作品が重視するプロセス(変化)の性質が際立った反面、老いることを美しいと捉えていた自分自身の感覚は損なわれて感じたと、ワンは語っている。

これを作家個人の芸術観に対する外部からの毀損として考えるのはたやすい。だが、ここにはおそらくもっと核心的な、中国における老いと政治の緊張関係が伏在しているように筆者には思えてならない。

毛沢東の死後、鄧小平による改革開放路線、社会主義市場経済を推し進めた江沢民、胡錦濤の体制を経て、現在の中国は強国・強軍を謳う習近平の時代へと移っている。柔軟に資本主義経済や外来文化を取り入れる宥和政策によって国力の増強を計った戦略的な前進の時代は終わり、中国は再び超大国としての地位を確固たるものとしたが、それを支えるイデオロギーは常に革命であり、革命の精神は概念的な若さによって担保され続ける。逆に言えば、国家が体現しようとする永続的な若さは、政治の場における老いの要素を隠匿することでアイデンティティを確立してきたのだ。老獪な政治家が外面的な若さをパワーとして誇示するのは、もちろん中国に限らないが。

そう考えれば、中国舞踊における老いの導入は、その対局に置かれる若さが象徴する政治性や革命性を相対化・弱体化させるものとして仮定できるだろう。観客から寄せられた「衰老」に対するネガティブな反応は、老いに潜在する中国的規範の反覆可能性を無意識に感じ取って生じたものではないか、というのが筆者の推測である。

2018年に開催された「第12回 上海ビエンナーレ」のオープニングで現代美術作家であるヤン・フードン(Yang Fudong)が発表した《Indeed, The Only way》は、赤絨毯の敷かれた大階段の100名以上の若者が整列し前方を見据えるインスタレーション/パフォーマンスであった。眼前に広がる「唯一の道」への展望を体現する若者たちの身体は、兵馬俑の兵士像のように恒久的に堅固でもなければスタティックでもない。同作が若さによって、いずれ必ず訪れる現代中国の老いを予兆したとすれば、『WHEN MY CUE COMES-』では、可視化される老いた身体、老いのプロセスによって、若さに隠匿されたイデオロギーを露わにするのである。

島貫泰介 美術ライター/編集者

1980年生まれ。京都と東京を拠点に、『CINRA.NET』『美術手帖』などで執筆・編集・企画 を行う。 2020年夏にはコロナ禍以降の京都・関西のアート&カルチャーシーンを概観するウェブメディア『ソーシャルディスタンスアートマガジンかもべり』をスタートした。また、三枝愛、捩子ぴじんと共にリサーチのためのコレクティブ「禹歩(u-ho)」としても活動。展示、上演、エディトリアルなど、多様なかたちでのリサーチとアウトプットを継続している。