身体を流れる時間

フィリパ・ロスフィールド

日本では高齢の日本人芸術家が歌舞伎や能、舞踏などの熟練者として高く評価され、称賛を得ていることに私は常に関心を抱いてきた。しかし、西洋の劇場舞踊が同様であるとは言えない。バレエでは特に、ダンサーが30代に達すると引退を迫られる。西洋舞踊における若さにまつわる理想は、どれほど切り離せないものなのだろうか。美とはただ若さに限定されるものだろうか。

日本舞踊の師範であり、ダンスドラマトゥルクであり、また研究者でもある中島那奈子は 「老いを巡るダンスドラマトゥルギー」研究プロジェクトで、中国人の演出家・振付家のメンファン・ワン(王夢凡)との対話をキュレーションした(1)。ワンは近年、中島をダンスドラマトゥルクに迎えた作品『WHEN MY CUE COMES, CALL ME AND I WILL ANSWER』を制作した。この作品には中国国立バレエ団を引退した二人のバレエダンサーが出演する。その二人は素晴らしい経歴を持っている。ツァオ・ズューグアン(曹志光)は、1950年代に旧ソ連の訓練を受けた第一世代のポスト「革命バレエ」ダンサーの一人である。彼は文化革命の傑作『紅色娘子軍』の制作の一端を担った。この作品は10年間で上演が許された二作品のバレエ作品のうちの一作品である。こういった状況は、中国バレエが西洋的な美学と中国革命思想の奇妙な融合から発生したことを物語る。ワンは中国の芸術実践には文化的プロパガンダの一翼を担う機能がある、という考え方について語っている。そこでは同様に美学は集団的な性質を持ち、芸術家個人のものではない。それは作家性(auteurship)と演者の妙芸を軸とする西洋の振付概念に相反するものである。

その点が身体性と運動感覚の次元でどのように作用するかは興味を引かれるところである。ミシェル・フーコーは『監獄の誕生―監視と処罰』で身体に刻み込まれる社会性と政治性について書いている(2)。フーコーによると舞踊訓練の厳しさは身体能力を高め、例えば(個々の次元では)強化をもたらす一方で、同時に社会的な次元では利用価値を高める。訓練された中国のバレエダンサーは、高い芸術性と能力を兼ね添えた個人の行動主体性の宿る存在だろうか、それともプロパガンダメッセージの媒体にしかすぎないのだろうかと、フーコーに因んで問うてみるとどうであろう。答えはあるいはその両方なのだろうか?

フーコーによると習慣の形成とは身体のスキル獲得手段である。習慣は身体化されると使うことができるようになり、効果的に使うことのできる能力またはスキルとなる。習慣は訓練を通じて習得し、実践を通じて実行される。古典バレエにおける反復と日々の継続的稽古は、習慣を根付かせるのみならず、ダンサーの主体性自体に特定の感覚を植え付ける。強烈な文化革命から作られたバレエ的感覚は、より大きな社会的目的を果たした。『紅色娘子軍』へのワンの批判が、当時文化的・政治的機関の一端を担ったダンサーたちに歓迎されなかったのは無理もない。

バレエのレパートリー、それに対する批評、また身体化の間にはある種の緊張感がある。例えば、ワンの作品の女性ダンサーであるリョウ・グェイリン(刘桂林)は『ジゼル』を学んだ。振付が身体に入り、習慣レベルに浸透すると同時に、彼女は振付のブルジョア性に対する批判について学んだ。作品のイデオロギー的な側面を批判することが、その作品が身体に与える影響に干渉する可能性はあるだろうか?政治的に疑問の余地があると位置付けられていても、リョウの身体には『ジゼル』の要素が潜り込んだことが会話から見受けられる(3)。つまり『紅色娘子軍』は西洋バレエの古典的な語彙と共産主義国家のメッセージを結合するといえる。

何十年という時を隔てて、それだけの時間が経過しているにも関わらず、 染みついた身体の動かし方(習慣)は永遠に若いまま変わらないといった感覚がある。私自身の代表的なムーヴメントは数十年前に形成されている。それを未だに認識することができる。同様にツァオとリョウは、何十年に渡って従事してきた訓練と稽古に強く結びついている。二人が普段の日常的な感覚で舞台上を歩くことができるようになるまでに三か月かかったとワンは語る。私自身、バレエレッスンでは上品なステップでスポットからスポットへと皆で走らなければならなかったときのことを覚えている。それは二人のダンサーに染み付いている。50年も前のことであるのに、それでも今もって影響を強く与えている。

『WHEN MY CUE COMES, CALL ME AND I WILL ANSWER』は古さと新しさ、若い者と老いる者、習慣(動き方)とその再形式化の狭間の緊張関係に向き合う。多数の相反する傾向に対峙するのである。老齢に備わる知恵は、若かりし過去の習慣(動き方)と美学を孕んだ身体において表現される。ワンはフェルデンクライス等のソマティックな実践を用いて、現在に関わる考古学を舞台に上げる。しかし、過去の身体性を掘り下げるのは簡単なことではない。過去を手直しする権限は誰にあるのか?この作品の指導者がワンであるのか、ダンサーたちであるのかについても、意見の相違があった。その応答としてワンは自らを舞台に上げて、作品の最中に老いることについて会話を始めた。古典バレエのレンズを通して、舞踊における年齢について考え方を変えていくといった多重層の作業である。

ストラヴィンスキーの若さに捧げる曲を老いた人々の身体を起用して再上演する、カタジナ・コズィラ(Katarzyna Korza)の『春の祭典(The Rite of Spring)』のビデオインスタレーションを思い起こす(4)。若さをテーマとする作品と老いる身体による表現の間の不協和音は、老いに対する固定概念の再考を迫るとクリステル・シュタルペアト(Christel Stalpaert)は主張する(5)ツァオは椅子の上で踊る。床に足をついている一方で、 バレエの上方向の軽やかさをもって重力感を操作する。地から気を引き起こし、上方の流れを感じながらも同時に下方につながる点において私は気功も想起する。

東洋と西洋では老いにまつわる文化や考えが異なるとしても、舞踊の中で老いに出会うことには革命的な何かがある。中島やワンを始めとする女性が舞踊の文脈において老いにまつわる複雑性を掘り下げ、偏見を見直し、時間の経過を再考させてくれることを喜ばしく思う。


(翻訳:辻井美穂)

  1. 2021年1月31日に開催された京都芸術大学主催のオンライン研究会。
  2. Michel Foucault, Discipline and Punish, Penguin Books, 1977. / ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』 田村俶訳(新潮社、1977年)
  3. 文化大革命(1966―1976)では、精霊が登場するロマンチックバレエ「ジゼル」の上演は禁じられていた。(訳者注)
  4. See Katarzyna Kozyra, Casting, exhibition catalogue, M. Sitkowska, H. Wróblewska (eds.), Zachęta National Gallery of Art, Warsaw 2010.
  5. Christel Stalpaert,“Dancing and Thinking Politics with Deleuze and Ranciere”, in Choreography and Corporeality, edited by T. DeFrantz and P. Rothfield, Palgrave, 2016.

フィリパ・ロスフィールド
研究者、ダンサー、ダンス批評家。オーストラリア、ラ・トローブ大学名誉教員(政治哲学)、南デンマーク大学名誉教授(ダンス、身体論)。メルボルンの劇場ダンスハウスのクリエイティブ・アドバイザー。単著にDance and the Corporeal Uncanny Philosophy in Motion (2020)、共著にPractising with Deleuze: Design, Dance, Art, Writing, Philosophy (2017)がある。