「用の美」の様な身体を目指して ―稽古を通して考えた老いと身体知―

老いを巡るダンスドラマトゥルギー」の研究会に参加させていただいて、1年。年に数回とは思えない密度で私の思考に影響を与えた研究会であった。

これまで「老い」というものを取り立てて意識したことはなかったものの、ちょうどお茶の師がガンで亡くなる数日前まで抗癌剤を投与し続けながら稽古場でご指導されていたこと、そして京舞の師が背骨の骨折を経てお稽古に復帰され、今もお稽古をつけてくださっていることが身近にあった。老いというものを意識しつつも、常に学び続け、教え続けておられるお姿に加えて、行き届いた気遣いに幾度救われたかわからない。

研究会の中で様々な角度から「老い」を捉え直す中で、私自身がなぜ稽古を続けるのかという問いを考え直すこととなった。

京舞を研究されている岡田万里子さんのご講演で、井上流が祇園という街に伝承したことで、近世末から明治期の流行や特色を色濃く残しているが、現代では、例えばその曲を弾くことのできる地方さんが減ってしまったり、また受け取り手が理解できなくなってきているということも影響して、上演されなくなる曲もあると知った。

人の上に立つ時に教養や徳が必要とされていた時代から、高度経済成長を経て価値観も大きく変容し、観客あっての舞台芸術は、祇園という街の中では特にその変化による影響は顕著であると言える。座敷舞などの文化は、より「密」な空間だからこそ、そしてその場を共にする人たちのある水準以上の共通の素養があったからこそ、呼応しつつ発展し成り立ってきた。だからこそ、このコロナ禍で生身の人間の身体が改めて見直されているように感じる。

身体は教育と社会によって規定されていること、それが変化していく物であると如実に感じたメンファン・ワンさんのご講演では、老いたからこその「知恵(wisdom)」は創り出すことはできない、という言葉に感銘を受けた。

28歳という年齢は若くもあり、アラサーという世代でもある。これからどんな風に歳を重ねていきたいか。ただ単に健康的で若くて強い身体を目指すわけでもない。しなやかな感受性を保ちつつ、心配りのこもった身のこなしや仕草を持つ「用の美」のような身体。先人たちの残した身体の知恵を稽古に求め、それを自分に刻むことを楽しんでいる私の身体への興味は、どう変わっていくのか。人生のテーマとして楽しみたい。

天野たま