身体のエコー、記憶

全4回の研究会では日本の伝統芸能からバレエ、さらには西洋の劇場システム、踊り手の社会的立地位、など多岐にわたる議論が展開された。ここに個人的な感想と気付きをここにメモしておこうと思う。

まず日本の古典芸能とバレエ界の作品構造や舞台興行の違いについて、それらが踊り手の長い人生においてどんな弊害を持ち得るか、あるいは効果的にはたらくかについて。

日本の芸能に見られる襲名の意味するものは非常に興味深い。

いち踊り手の中に時間の堆積を感じ先人たちの影を重ねていくこの制度は、ひとりの踊り手の存在に既に演劇的入れ子構造を演出しているかのような、メタ的面白さを孕んでいるように思う。

第3回、4回で展開されたバレエダンサーと老いについて。

劇場運営システムのなかで代替え可能なダンサーという立場を生き抜いていく為に費やされた膨大な時間や疲労は引退後のダンサーの未来に何を残せるのかについて思いを巡らせた。

能の翁のような老人が主役といった古典バレエ作品はおそらくない。昔話の中に既に老人が重要な役を占めているものが複数見られる日本社会との違いだろう。バレエは劇中に「若さ」を追求するが、若すぎても「若さ」を表現しきれないという話も聞いたことがある。

基本的にバレエでは情景を演じるcorps de ballet(群舞)が重要な位置を占めていることからもわかるようにダンサー個人の個性を重んじるというより、様式に則った身体で作品世界の一要因を担うことが求められる。そこで育まれた身体が、それぞれの国やシチュエーションの違いこそあれバレエを失った後にバレエ的身体として可能にする新たな表現とは何だろう。もはやバレエが世界中で同様に使用されるグローバルな身体言語となっているからこそ、そこから派生するものの違いは多様な背景を想像させてくれる。

メンファンさんのダンサー達のようにかつてのバレエダンサーが自身の身体に耳を傾け、再び舞台上で語り始める時、観客は彼らの過去をもそこで同時に見ることとなる。彼らがバレエダンサーであったという事実の上にエコーのように響くもの。それがやがて鮮やかに「いま」として存在し始める。

興味深いのは、時間を往来しながら過去の存在と目の前にあるものを照らし合わせ価値観をアップデートしていく、ある種の「襲名」と似た上演における入れ子構造がここでもみられることだ。そしてその枠組みの中で見出される差異や痕跡といったパーソナルな事象や社会的背景こそが彼らの「いま」を物語り、共感できるものとなり得るとともに老いや新たな美しさを語る上での重要な要因ともなるのではないだろうか。

平井優子