前編を読む

あるバランスの中に体が置かれているといった感じでしょうか。内外への意識の向け方も『Trio A』がダンサーに課すタスクの一つだったのかもしれませんね。

『Trio A』の要素のことで言うと、このテキストにもあったと思うのですけれど、実際の動き、踊られている動きで使われているエネルギーと、お客さんがそれを見て「これぐらいで動いているんだな」と受け取るエネルギーのレベルを同じにするように、ということも書かれていました。他のダンスでも、こうやって(実演して見せる)動いたりすると、どれぐらいエネルギーを使っているのかがわかりにくくて、なんかとっても楽そうに見えるのに実際踊っている方はものすごいエネルギーを使っているということがあったりするんですけれど、そういう見かけ上のものを『Trio A』ではお客さんに見せないようにする、実際に動いているエネルギーとお客さんが見て受け取る、あ、これぐらいで動いているな、というエネルギーを同じにするように、ということがあるんです。

従来ならむしろエネルギーを使っていると悟らせないことが美徳とされてきたと思いますが、ここではそのままお客さんに伝わるようにするんですね。

日常の中で、たとえば実際に立つときに、普通の生活の中でやっている動きだったら「楽そう」とか、そういうふうには見えない。そこで起こっていることがそのまま見ている人に伝わる、というふうに書かれていて、それを実現するために踊りでどういうふうに動いたらいいのかということが、踊りながらも難しいなと思っていました。それで、『Trio A』の本番の1日前に、舞台の上でダンサーたちが自主稽古みたいなことをしていたのですけど、それを客席の離れたところから見ていると、なんか、すごく、見せようとして踊っていなくて。お稽古なので。その踊りがすごく素敵だなと思ったんです。

お客さんを意識していない踊りということですね。その時、樹里さんは一人で客席に降りていたのですか。

展示空間で踊るということだから、お客さんに表現しない、見せようとしない、アピールしようとしない踊りと思っていたので・・・展示って、でも見せようとしているから展示しているんですかね、何だろうな・・・でもそうではない、見せようとしない状態を見てみたいなと思って、稽古中の踊りを遠くから見てみたんです。淡々と練習している体というか、踊っているということがアピールされないから、何にも装飾がなく見ることができるというか。その人がここを見てほしいとか、ここの動きを見てほしいとかということではなくて、そこで起こっていることの全体がとってもよく見えるようになるというか。その時のダンスがとても好きだなと思ったんです。

展示空間という話をされましたが、あの場には『心は筋肉である』(注:『Trio A』はこの作品の一部)で使われたマットレスが置かれたりブランコが吊られたりしていました。アーカイブ空間の中でダンスが展開しているという感覚はあったでしょうか。

あまりこう、アーカイブとの関連を強く意識することはなくて、やっぱり舞台だし、お客さんがいて、何時から本番という感覚でいたので。そのアーカイブと地続きでこの発表が時間を再生するというようなところまでの意識はなく、ただショーイングがあるという感覚でした。後からそれを見て理解し直して、それがひとつの資料になったり、考える要素になったりということはもちろんあって、私もそういうことだったんだなって思ってはいるんですけれど、それよりも、限られたリハーサル時間で本番を踊らなくてはいけなかったので、そのタスクを体でクリアするっていうことで精一杯でしたね。

逆に十分な時間をかけてリハーサルをすると、どこか洗練されてきたりすることにはならないでしょうか。タスクをこなすという以上のことを求めていない作品ですよね。

そうですね、見る人に開かれている作品だと思います。踊っている本人たちはもちろん得るものはあるんですけれど、本人たちが何かを表現するというものではないと思うので。だからこそ、これまで30回ほども再演されてきたんだと思うんです。

何かを表現するのではないという考え方は当時は画期的だったと思いますが、今日のコンテンポラリーダンスではむしろ大勢とも言えますね。例えば昨日の作品(注:伊藤千枝・振付『あなたの寝顔をなでてみる』、国内ダンス留学6期生ショーイングとしてArt Theater dB 神戸で上演)。ちょっと昔のジャズにのってダンスフロアで楽しげに踊るような作品で、敢えてアーティストが舞台にのせて何らかの意味内容を表現するといったものではありませんでした。

そうですね、あの作品は、昔のジャズダンスっていう印象が私にはある。多分『Trio A』はそういう何かのイメージとか印象を持たせない作品なので、ちょっと違うかなと思いますね。

去年の国内ダンス留学のショーイングでの余越保子さんの『舞踊展覧会』、樹里さんも出演されましたが、あちらの作品についてはどうですか。集団のフォーメーシォンやその流れで見せていくという意味ではポストモダンダンスの流れにあると思いますが。

あれは、日本のコンテンポラリーダンスの若い人たちの基礎に大学ダンスや高校ダンスがあって、そういう人たちのダンスってこういうものです、って見せる作品だったので、それとも違いますよね。『Trio A』は踊り自体に意味がないというかフラットでピュアなもので、どんなものでも、こう、含ませて、その時代ごとの状況を見せられるもの。年表にもいろんな上演の記録がありました。

ベトナム戦争の時代に星条旗を体に巻いて踊るといったものもありましたね。

踊り自体に意味とか伝えるものがないから、その時代に必要なものを投影することが出来る作品だったと思うんです。ここにも(資料を指して)書かれているんですけど、このダンスは見えにくいダンスだって書かれていて、ジャズダンスっぽいよねって言える作品ではないし、「何々っぽい」って言えないということなのかな、と思いました。

そういう意味でフラットなダンスを踊ることは、樹里さんにとってどんな経験だったのでしょう。この作品が鏡となってご自分が積み上げてきたものを照らし返して見るようなことはなかったでしょうか。

意識をしていなくても常に何かに影響をされていて、無意識のところでも、自分が経験してきたこととか、今の環境とかに影響を受けている、ということをあらためて知る・・・全然答えにならないと思うのですけれど、自分の呼吸で踊ってはいけない、踊らない。そういう感じが『Trio A』にはあって、自分が息を吸って吐いて、吐けたら次を吸う、というのではなくて、動きのフレーズを作らないということにも似ているのかもしれませんが、一つの動きをして次に移行するときに、動きが終わって、句点を付けてから次に行くということはしない踊りで、その句点を付ける前に次の踊りに移行していかなくてはいけなかったので、自分のいつもの呼吸では踊らない、という感じがしました。これまで慣れてきたテンポではないところで、ずっと体を置いているという感覚がありました。グラハムは特にそういうメソッドなんですが、グラハムに限らず振付家によっては呼吸と動きを巧く繋ぎ合わせて踊りなさいっていう人もいます。私はそういう人に出会うことが多かったということもあって、そういうところからも発見することがありました。

今回の体験を樹里さん自身は今後どう展開していかれるでしょう。ご自身にとっての方向性など、これからのことを聞かせていただけますか。

気になっていることは、何年間でも何十年でも残っていく踊りっていうのは、どういうものなのかということ。しかもそれが踊り継がれていくもの、その時代にとってコンテンポラリーダンスであるっていうものはどういうものなのかなというのは気になります。これからコンテンポラリーダンスという言葉がなくなったり、違う踊りが出てきたりするかもしれないですけど、そうなっていくときに、今に生きているダンスというものがどういうものなのか。でも『Trio A』が何度も再演されて、そのたびにその時代を反映させるように上演されてきているっていうことがあるわけですし。

その時代にとってのコンテンポラリーダンスと、引き継がれ、時代ごとに再生されていくダンス。

今セレノさん(注:セレノグラフィカ。関西拠点のカンパニー。代表の隅地茉歩が2005年トヨタコレオグラフィーアワードにて次代を担う振付家賞受賞)といっしょに踊りの稽古をしてもらっています。セレノさんがこれまで自分で作って自分たちの体で踊って来られたダンスを別の人に移して上演されたりしているんですが、その人にとってのダンスがどういうものなのか、踊りの軸がどこにあるのか。『Trio A』だったらタスクとか、コンセプトというものを受け継いでいくことでダンスが再生されていくということがある。でもそうじゃない作品にとっては、昨日の伊藤千枝さんだったらその場に空気をもってくるっていう(*)、そこでダンスが作られたり、セレノさんたちだったらデュオ、ふたりがいるっていうことで踊りが起こっていくというように、踊りの軸が次の時代に置かれたときにどんなダンスになるかっていうことに興味があります。自分がダンサーとして振付を受け取った時に、自分にとっての軸がどういうものなのかが気になります。

逆に『Trio A』がずっと残ってきたのは、軸にマニフェストがあり、こういうものに対してNOと言う踊りであるというコンセプトがあり、そのコンセプト自体が受け継がれて、時代ごとに再生されるという形があるから?

どうですかね・・・いろんな作品があって『Trio A』にもそういう部分があると思うんですけど、でも実際稽古場にいってみると、マノーさんの体が強くて、マノーさんから受ける『Trio A』の印象っていうものが結構私には影響することもあるので、そのどちらもあるんだと思うんです。

やはり現場で指導するその人から受けるものはとても大きいんですね。

大きいと思います。

昨日、伊藤千枝さんが言った「空気」みたいなものも含まれているんでしょうか。

含まれていると思います。マノーさんは振付家じゃないのでちょっと違うとは思いますが。マノーさんの場合は体をどのくらい動かすかとか具体的なことを教えてくれるので。その文章に書かれていて想像することと、実際目で見て知ることは、また違っていて、受け継がれるときはその両方があるんだろうと思うんです。

ダンス・アーカイブが議論されていますが、やはり「人」が伝える部分は無視できない。

そうですね。

それによって再生されるものも違ってきうるということですね。

はい

だから逆に限られた何人かにしか『Trio A』の指導が許されていない。

そうですね、誰にどれを託すかということはすごく大きいことですよね。

振付家が託すのですね。

そうですね。誰に託すのかっていうことも、振付のひとつなのかもしれないですね。(了)

(2018年1月26日、神戸市内にて。聞き手:竹田真理)

*インタビュー前日に行われた『あなたの寝顔をなでてみる』ショーイング。伊藤千枝の2007年の振付作品を国内ダンス留学@神戸の6期生が上演した。アフタートークで過去作品を振り移す作業における「作品」とは何かの質問に対し、伊藤は「大きな風呂敷に包んで運んできた空気のようなもの」と答え、振付概念の現場性、属人性を示唆した。

 

■西岡樹里(ダンサー)
兵庫県出身、在住。幼少よりダンスを習い始める。大学にて舞踊を学び、文化庁・NPO法人DANCE BOX主催 国内ダンス留学@神戸 に一期生として参加。砂連尾理、チョン・ヨンドゥなど国内外で発表される様々な振付家の作品に出演。また自身の振付作品を製作し発表する。(写真:田添幹雄)

 

■竹田真理
ダンス批評。関西にてコンテンポラリーダンスを中心に取材・執筆活動を行う。毎日新聞大阪本社版にレビューを執筆するほか、ダンスワーク(ダンスワーク舎)、シアターアーツ等の批評誌、公演プログラム、ウェブ媒体等に舞台評、テキスト、インタビュー記事等を寄稿している。