(2022年4月3日(日)に千秋堂で実施した集中研究会から)

中島 まず初めに北京のメンファン・ワンさんに、3日間見ていただいた感想をお聞かせください。

ワン 今回、このようなワークショップに参加するのは初めての機会でした。最後のプレゼンテーションは、覗いてるような気持ちでした。

これまで、なかなかつながりにくいと感じてたので、皆さんがそれぞれソロでプレゼンテーションとワークショップをされて、身体的にもつながりを感じるようになりました。そしてすべて理解することを目指すのではなく、皆さんがやっていることや話していることを表現そのものとして受け止めようとしました。声や音といった雰囲気を受けとめる形を取ると、すっとつながりを感じました。そして、どのように皆さんが他の方々に伝えようとしているのかが伝わりました。

今回、非常に大事だったのが、伝統芸術の世界の中で、老いがどのように理解され、実践されているかについて学べたことです。それがどのようにパフォーマンスアート、芸能の形に見られるかも学べたと思います。特に中国では、そのようなことは受け入れられていない、実践されていないのです。

全体的にとても身体的な感覚に響いたと感じていて、頭というよりは身体的に、今回の経験を掴むことができました。そして今回は私自身がプレゼンテーションをしなかったので、皆さんのプロセスを拝見できて、非常に美しいと感じました。特に皆さんがワークショップからどんどん発展してとプレゼンテーションと最後のソロの形に転換されるプロセスです。あと、この空間がとても合っている気がしました。私は同じスペースにいないのですが、空間感覚をつかんで理解できる経験でした。

中島 先程中国では、日本のようには老いが芸能で見られないと仰いましたが、それについて教えていただけますか?

ワン 特に文化革命の後、伝統芸術に関して世代間で非常に大きな開きが出ています。

そして特に伝統芸術と現代アートの間には、完全に隔たりがある状況となっていますので、私自身、伝統芸術について学ぶ機会がありませんでした。小さい都市や地方では、まだ伝統が残っていますが。ただ、私のように大都会にいると非常に難しく、私自身が日本の伝統芸能を通じて、中国の伝統芸術に関心を持ち始めたので、非常に長い道のりを経てたどり着いています。

そして年配の師匠を求めても、どこにいらっしゃるのかの情報さえない状況です。非常に悲しいですが、これが現実です。私の世代において、演劇やダンス業界の友人たちは全く興味を持っていない状況です。個人的には、現実的に中国の伝統芸術の具体的な形に触れることができなかったとしても、伝統芸術の精神に触れることは出来ると思っています。日本の伝統芸能から出来る限り、機会を得られる限り近づいて、そこから学んでいけたらと思っています。

森山 10年以上前にこの大学にある留学生が来ていました。中国・内モンゴル地区からの留学生でした。彼女は伝統舞踊の家に生まれていて、お父さんが師匠だから、そういった少数民族の中ではまだ残っていると思うけれど、そういうものも少なくなってきていると言っていました。今はどうなってるかは分からない。10年以上経ってますから。全体としてはアカデミー中心になっていくのでしょう。

ワン 舞踊のアカデミーが出来ている状態ですが、そこで学ぶダンス・舞踊は民族の舞踊とは異なってしまっています。ですから、私が民族舞踊を学びたいと思ったら、その地域に行って地域の人からも学ぶ必要があります。それをやろうと私自身は意識してこなかったのですが、興味深いと思っています。

中島 次に平井さん、いかがでしょうか。

平井 今回のワークショップを通して、色々と発見があったと思います。それと同時にこの空間が持っている力は、私にはとても強く響いていて、そこから感じたことも、影響されているような気がしています。今回、今までZOOMで話してたりした時よりも、身体と一緒に出ていくという感覚が強かったので、ただ老いのことを考えているよりも、呼吸やリズムなど根底の部分に気付くことがあると思います。今のお話にもあった、時間や呼吸、余白、アイディアやリズムは、その技の熟練、行動と関係してくることを改めて考えました。また背景を感じさせない人のダンスを見た時に、それが新しい価値観というか美しい魅力、そしてそれが出る瞬間を、どう捉えたらいいか考えてみたいです。

今日のプレゼンテーションでは、それぞれのスペクタクルを見た感じが残っています。あと今回は映像に収めるというのが特殊だと。全てフィクションのようで、そこにいるけれどいないような。観客でもレクチャーを聞くスタンスでもないし、不思議な感覚でした。第三の目がある。これが映像として残るのは老いのテーマでもあると。瞬間が残っても、明日には老いとなっている感じという気がしました。

中島 そうですね、撮影で考えていたのは、ズレを感じさせることです。自分ともう一つのものの距離が出てくる。そのずれはセリフと身体だったりする。それを身体ではないメディアを使い、音とイメージを切り離す、もしくは切り離したものを別に繋げる、そういう操作も可能かなと思いながら、拝見しました。もちろん、パフォーマンスで出来る場合もありますが、それを撮影して別の形で組み替えることも出来るかと。

森山 場の力と仰いましたが、平井さん、屋外で撮影した感じはどうでしたか?

平井 お昼を外で食べたこともあって、ここだけではない空間を共有したとことも含めて、とても良いと思いました。昨日児玉さんが、この形(枝)と山の稜線の話をされていて、そこからぐっと寄せて考え始めていました。本当に長い時間をかけたものから切り取られた瞬間と、今回のダンスから感じるものが同じものとして、語れないだろうかと。 

森山 稜線がポイントですから、あの場所に行って、稜線と空間と一緒にいることが大事だったのですね。

昨日のレクチャーで話せなかったことがありました。何かというと、自分がコントロールしたい気持ちと身体がズレていたりする時に、それはネガティブな話になるだけではなくて、笑いやユーモアとかにつながっていく、それが現代劇にとっても大きな要素だと思っています。

一番端的な例が、チャップリンやバスター・キートンが出ているサイレント映画のコメディー、です。例えばチャップリンはドタ靴を履いている。つまり身体に合わない服を着てる設定で、社会的にも浮浪者である。その時にズレたところで笑いが、あるいはユーモアが生まれることを、サイレントコメディーの人たちは見せてくれる。現代の演劇や色々な文化に大きなインパクトを与えてるわけです。ただそれをしゃべって終わりというのもつまらないので、今日の私の短いプレゼンでは、トークの背後にチャップリンの『ライムライト』のラストを音だけかけて、気になったテキストを集めてみました。使用した5本のテキストのなかでは、ボーヴォアールは「老いの話なんてするのも駄目、みたいなことを言うな!」と怒っていて、その怒り方も面白いと思ったので選びました。谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」は一番順番を決めかねて、最後に持ってきたら結論になってしまうから2番ぐらいに、ボーヴォアールで中和するぐらいの感じで持ってきたのですが、あそこで主人公が言っていることも、ある意味では非常におかしい。ユーモアに通じるものではないか、と。

私自身も50歳を過ぎて、大きな老いというのはまだ経験していないけれども、多分小さな老いが少しずつ大きくなってきているから、老いがやがて自分の身に訪れるということは、足音が聞こえる感じがするんですよ。その時どういう老人になりたいかと考えると、ああなりたいというのではないですが、欲望に素直な姿勢は、一つのあり方だという感じがしています。それから志村けんの『変なおじさん』はものすごく「普通のこと」を言ってるじゃないですか。こういう研究会だと話が難しい方向に動くので、持ってきてみました。

一番最後のテキストは、私が昨日書いたテキストです。最後に自分の言葉で締め括っておこうかと。大きな老いと小さな老い。その小さな老いは、老いと呼ぶかどうか人によって議論の分かれることだと思います。老いは、人の人生が大きく変わってしまうものだ、ということを忘れてはいけない。でもそういう老いを受け止める時も、糸口のようなものとして小さい老いに敏感になりたい気持ちもあって、小さな老いを考える。これは加齢ですね。あるいは何か失うということ。もしかすると、それ自体が一種の老いと考えてみたらどうか。

色々なところで失うけれども、それによって得たことは、バランスが取れるところもあるから、失ったことが単純にネガティブとはいえない。加齢を重ねていくことが若さを失うだけでもないと考えています。

最後に皆さんのワークショップの感想を。平井さんのワークショップが非常に面白くて。バランスを取っている感じですね。バランスを取りながら動いている感じが、加齢という、私がイメージ出来るものと繋がる感じがしました。こちらに触れたらこの辺で重心を取り直すとか、そういうことをやらざるを得ないことを、感じたりしているので、繋がって面白かった。しかし大きな老いは、もっと過酷なものであると思いますから、分かった気になるのは難しい。多分、自分がそういう小さな老いに直面していることは、その反省になっている感じがしますね。

中島 笑いの中でも、微笑みとか冷たい笑いとか色々ありますが、森山先生のお話を聞いてて、大きな、祝祭的な笑い、慶びみたいな感覚を繋げていけると思いました。相手ではなくて、場を慶ばせる感じです。では高林さん、いかがでしょうか。

高林 漢字をあてれば笑い【注:エラギとも読む】なんですよ。今、笑いというと吉本新喜劇みたいですが、そうではないですね。言葉の定義が違うのです。慶びを表した感じです。ですから能の型に笑いの型はない、する必要がありません。翁は笑ってる顔じゃなくて、自然に柔和な顔をしてるだけです。でも、いかにも笑みを湛えて笑っているように見える。その心なんです。問題は、その笑いの謡い方です。発声の方法も全部違う。それは笑いというかえらぎというか、現代の文字で表せない、そういう歓喜が一番必要です。それが出来ていると、すべてのものはその心で賄える、というのが翁の中に含まれています。

中島 先程足の運びについてお話しされましたが、発声と運びはどう違うのでしょうか?

高林 発声の基本は翁でいいのですが、マイナス向きの感情が一切ありません。全部前向き、プラスの感情、それが笑いです。歓喜の心ですから。人間の動物的な感情は一切必要ないのが、最終的に翁が要求するもので、それが出来れば後は全部自然に出来ると考えるわけです。

悲しい時も根源には歓喜を考えてなければダメだという、理屈に合わないかもしれませんが。それはどう型に表れているかといいますと、能の型には身を捩ることが一切ないんです。他のもの、例えば演劇なら捩ることをしますが、それがないのです。それが翁の心に通じると思います。そういう動物的な感情は表に出さない。でも所作としてはあります。ものすごく矛盾してますけどね。

森山 だからチャップリンやキートンの笑いは明らかに、翁の笑いと違うのですね。どちらかというと「絶望の中の笑い」に近いかもしれない。

高林 分かりやすく言うと能は動物的な感情を全部否定している感じです。それ以外のものは、全部あからさまに、自分の持っている感情を人に出すのです。能はそれを全部あえて抑えて、本当の意味の笑いだけを追求しています。

森山 そこは、神、信仰の対象があるかないかの違いのような気がします。けれどチャップリンであれキートンであれ、神がないことが、むしろ前提になってる。絶望は決して消えないけど、バランスが取れている。しかしそのバランスは永久的に続くわけじゃない、という無限のものをずっと続けていて、それはやはり神がないところから来ている気がします。

中島 老いというテーマで必ず突き当たる大きな問題が、死という問題です。それについて語らないと研究としては片手落ちとされるのですが、日本の場合は少し違う。今回実は、即身仏の話をしようと思って、即身仏カードゲームも持ち歩いていました。皆でやろうと思ったものの、ルールがあまりに難しくて諦めました。元は舞踏からこの即身仏というテーマは出てきたのですが、老いのテーマと響き合うところもあって、おそらく、死を体現しているものとして即身仏があります。

老いは死に対する経路と考えるキリスト教的な死ではなくて、集大成的なもの、生まれ変わりや輪廻転生もあるのではないでしょうか。即身仏では「入定」という概念があって、これは人間の死とは捉えられていません。仏僧は即身仏になって深い瞑想に入るとされています。他方で、老いというテーマは欧米では必ず死に至る過程といわれ、死を語らずに老いは語れない。死を最後の地点として見る、そのための「老い」です。

高林 仏教も一緒です。この世で善行をおさめないと極楽へ行けないでしょう。キリスト教も掟を守って天国へ行く。同じ思想です。ですから私は天上にいる真の神様は、キリスト教でも仏教でもイスラム教でも同じと思ってます。

森山 死に至る過程は、無神論的な考え方だと思います。つまりキリスト教的な考え方なら、死で終わるのではなく、死んだ後に最後の審判がありますから、そこで救われるかどうかという問題がある。その意味で死は一つのプロセスで、老いが死に至る過程という考え方そのものが、無神論的だと思うのです。

高林 宗教は死後の世界に恐怖心を抱かせて信仰させるのです。私は死をそういうふうに考えていません。眠るのと同じだと思ってます。死んだ人がどこへ行くかも関係ないのです。ですから死をなぜ恐れるのか。死ってなんだ、息することが終わっただけだ。そういうふうだったら今、宗教なんていらないのですが。

森山 その意味では、死が終わりという見方の中で、死に対して物凄くネガティブな感情があるのは、まだそういう既存の宗教が残っていることかもしれないですね。

高林 死んだ瞬間は、本人は分からないです。そこから先どうなってるか分からない、分からないものに恐怖心を感じるのはおかしいです。私が死後の世界を恐れないのは、能をやってるからです。自分が幽霊になってるからです。能の幽霊は2種類あります。生前の姿の亡霊の幽霊と、本当に地獄で苦しみを受けている幽霊。私はどちらも経験してますから、死が怖くない。

中島 その感覚は、例えば意識と無意識に近いのでしょうか。自分でコントロール出来る時とそうではない時、何か意識を離れたところがあるというような。

高林 世阿弥の言葉に、意識と超意識というのがあります。私は超意識がなかったら舞えないと思っています。意識が働いていると舞えないです。世阿弥がそれを言い出したのは晩年です。その超意識というものが大事だと思います。能は現実の世界ではないですから、今の意識を持っていたら、絶対出来ない。

辻井 現代性と古来の「翁」や「老女」の掛け合いを私たちは目の当たりにしているのかもしれません。「老女」は死ぬというよりは、私たちのために種をまいてる、命を吹き込んでいる。「翁」も命を吹き込む行いをしてくれている。死ぬ直前の人が命を吹き込む、新しく芽生えるものを作ってくれる存在として、永続性をもたらすのでしょうか。それに対して、現代性にはどこかで終わることを前提とする文脈があるかもしれないですね。

その中で、児玉さんの動きは現代の文脈ですが、真摯に何かを動かそうとしつつも自分は動かされてしまっている。(現代舞踊の実践者の)平井さんの木の枝で自分が動かされていく、かと思えば木の枝の先のもっと遠くのものと自分の関係を見つめる。様々なジャンルを実践する人たちが真摯に、様々な感覚を引き伸ばしたり縮めたりしている。とても不思議なことが起きているのを観察していました。そしてワンさんも離れた中国から、それも実際にここにいられないながらも参加していて、そのすべてに対して真摯に取り組もうとした、不思議な時間と場所だった気がします。

中島 言葉や文化が違う中国と日本では、死や老いに対する考え方は随分違いますね。元々は双方近い文化だったものの、文革後は大きく変わってしまったと思います。

森山 中国は本当に変わり方が速いですね。世代が違うと全然違う。だから、もう子供が親の言うことを聞いても無駄だということが頻繁に起こり得ます。

高林 例えば、私の息子の稽古をしていた時の教え方と、私の息子が孫を教えているときの教え方は違います。それは私は時代の流れだと思って、何も言わないし、させておく。最終的に同じことが出来ればいいのです。そうすると、いつの間にか似たものになってきてます。私はそれを登山に例えるのです。表口から登ろうが、裏口から登ろうが頂上は一つなのだ。途中は、その道は間違っていると言う必要はない。出来上がったものが一つだったら、同じ頂上にたどり着くのです。

親を無視するのは、私は受け入れられないです。親を尊敬するのが中国のいい習慣だったのですけどね。中国の文化と日本文化は共通した点が沢山あります。まずどちらの人間も同じ民族で、心も近いものを持っている。ですから、文化も共通したものがあります。欧米文化と比べたら、中国文化の方が日本に近いのですから、それを否定したら国は傾きますよ。

児玉 僕はみんなで動くことを一緒にやってよかったと思っています。喋る時に揺れている身体があって、喋る自分がいるけど身体は変わっていくところが面白くて、「パフォーマンス」をしている感じがしました。

高林 私は180度反対のことをやってますからね。とにかくじっとする努力をしてるわけです。自然に身体が動き出すことは全部否定しているので。

児玉 あとスタイルの話が出た時に、これは老いとつながってるなと感じました。実際に経験しないとスタイルを保存出来ないし、作品をやるにしても、タイミングなどは口でしか伝承出来ないところもある。記録に残らないものが重要という考え方と、あえて重要な部分を記録に残さないことのリンクを感じます。

高林先生が動く姿を見ると、考えてやるよりは、超意識的な、意識する前に身体が動いている。身体に堆積しているものが見えた感じがして、そこに感動しました。抽象的なコメントになりましたが、老いと距離をとることが出来るのか、という問いが重要な気がしています。可能だと思うのです。それが文化、芸術の力だと思っています。

中島 距離を置くとはどういうことですか?

児玉 老いとのズレを感じることだと思います。僕は老いについて、若い時はあまり関心がなくて、そこにズレを感じていた。でも自分が老いてきたなと思うと、老いと距離を持てなくなってくる。そのことによって、芸術は「ほんもの」になっていくみたいなことでしょうか。そのプロセスが面白いし有意義だと思っています。ズレがないと生じないようなプロセスがある、という気がします。

森山 児玉さん、老いを感じることはありますか。

児玉 今は少しありますね。老いは数字化されたものという気がするのです。違和感があって病院に行くと数値が悪かったと本当に教えてくれるので。でも感じる老いは違うと思います。意識した違和感、それ自体が老いという気がします。老いと距離を置けるか置けないかということや、実際に老いを意識していく過程も、パフォーマンス的に重要だと思います。

もう一つ、森山先生が仰っていた、自分の声と他者の声のズレというのがある。そのズレを征服してしまうのが昔のモデルだとしたら、自然に任せてズレを見せるやり方が、現代演劇や現代ダンスではないかと。僕はその先に、ズレと和解する道もあると感じています。でもそれも一旦距離を置かないと出来ない事だと思うのです。

森山 老いを、今回改めて考えたときに、とても繊細な問題だと思いました。例えば中国であれだけ世代感が変わって、何を共有していいのか分からないとなったとしても、老いは絶対に訪れるじゃないですか。あらゆる人に訪れるという意味では、これほど平等な、稀のものはない。

しかしだからこそ、それぞれの置かれている環境の違いがとても大きい。物理的には必ず眼がかすんできたり、耳が遠くなる。でもそれをどう捉えるかは、その人が置かれてきた環境によって違う。一見全然違う感じ方をするように表れてしまうかもしれないけれど、繋がってるかもしれないという意味で、老いは、ばらばらな世代、地域、国、時代を繋ぐ一つのリンクになり得る気はします。でも、それを丁寧に扱わないと、ありきたりの固定観念になってしまう。繊細に扱うことによって初めて見えてくるものがある。

児玉 老いは死につながるからタブーというわけではないのかもしれないですね。老いは老いで普遍的で、死は死で普遍的。もちろん老いの先に死があるケースが大半なのだけれど、両者は別々の出来事です。でも老いの先に死が来ることを否定するのもまたおかしい。それぞれ別個に扱うことは芸術や文化が出来ることだし、それをやることは重要だと。

森山 そのためには老いが死に繋がるプロセスであるという先入観から距離をとらないと、老いと死を別々に考えてみたらどうなるかも、考えられなくなります。

中島 自分の年齢と、自分の老いに対する考えを切り離すことが出来ない場合もあります。自分の年齢と、老いへの肯定的もしくは否定的な偏見が、連動するのです。

高林 今私は86歳になって、当然老いてます。でも老いをそういう意味で怖がらない理由があるのです。私の父は69歳で亡くなりました。ですから69歳までの先陣の人たちをずっと見てきたわけです。すると自分が69歳をこえた時、見る人がいないんです。それで老いても全然恐怖を感じなくなる。そこでもし80歳、90歳の父親の姿を見ていたらちょっと違うだろうなと思います。

私がその年齢になった時、ここから先どうなるんだ、もう何も考えないでやるしか仕方がないと。だから余分と言っています。親の年齢をこえた後は余分です。余分の人生ですから、深く考える必要はない。自然に生きたままでいい、死ぬのは死ぬときで勝手に死ぬと。老いは自然だから、作った老いはだめという考え方になっています。

森山 今は自分の親が長生きする世代だから、親の老いる姿を見る確率が高いですね。老いをすごく恐れている親を見てしまったら、子供も怖くなるかもしれない。

高林 でも結局、周りに長寿の人がいるかいないかよりは、本人の意識、意識をこえた意識を持っているか持ってないかによると思います。

森山 どういう年長者か、自分がどう考えていくかという関係によりますね。

中島 伝統的な世界は、より年をとられた方がその道の先輩であり、先人です。以前の研究会でも議論しましたが、京舞の井上八千代さんの存在は、井上流という一つのシステムのトップとして、非常に大きかった。そして若いお弟子さんたちにも尊敬されるように、世代間のつながりがあることも大事です。前の世代から断絶があると、老いに対する抵抗が備わるようになる。先人から学ぶコミュニティの方が、相対的に長生きする人が多いようです。

辻井 英語の言い回しでIt takes a villager to raise a child、一人の子供を育てるには村一つが必要というのがあります。老いることに対する知恵があるんです。皆で知恵を集めて分かち合える文化は、とても良い空間を成します。命について、生まれた時から老いる時までどう扱っていけるかを、舞台だけではなくて色々なところで巡らせていくことが大事だと思います。

児玉 老いについてですが、「私はこれが出来なくなった」という段階を経て、「では今からどう踊るのか」を考えることが重要だと思います。

森山 自分を支えているもの、例えばダンサーだったらダンスですが、それが出来なくなった時にどうするかという問題が出てくる。自分が自分ではなくなってしまうと感じる時に、何かが必要になることはあります。

中島 ベケットの作品とドゥルーズの言説とも繋がりますが、不可能なことと可能なこととは、面白い関係があると思います。出来ることの反対は出来ないことではなくて、出来ることをしないこと、だと私は考えています。

高林 そうですね、出来ないことをしないことですね。出来ないことをしようと思うから色々なことが起こる。その時に老いを感じる。出来ないことしなければ、苦痛は感じないから老いは感じません。ただ、出来ないことを自覚してないといけない。それを平然と自覚出来ていたら、出来ないことをしなくても平気でいられる。

児玉 高林先生のお話を聞いて面白いのは、能ではウォームアップをしませんよね。それは、出来ないことはしないというのにつながってるのかと。出来ることをする為の準備と、出来ないことをするところまで持っていくためのウォームアップは違います。能の場合はそれが実践に取り込まれていて、演技にすっと入って、だんだん積み上げていくイメージを持ちました。

高林 何もしなくて出来るようになるまでの努力が大変です。老いて一番怖いことは何だと思いますか? 出来なくなってることが分からなくなることです。こうなったら、引退しなくてはいけません。でも自分が引退して考えてみると、これは物凄い決意がいることです。出来ないことがあると意識することは、本当に出来た人しか分からないです。70歳をこえても現役でいたければ、出来ることをやればいい。年を取って出来なくなったからといって、努力しても出来るようになるわけないのです。その分別が必要です。

今回はいい勉強をさせていただきました。今年米寿なんですが、米寿の年にこんな面白い体験させてもらえて私は幸せものです。ありがとうございます

中島 皆さんどうもありがとうございました。