前編を読む

リハーサルの現場についてお聞かせください。振り移しの作業についてはどう思われましたか?

みんな言っていたと思うんですけど(笑)、メッチャ難しいんですよね。ほんとに難しくて、細かくて。バレエでしたね。初日に神村恵さんと「メッチャ、バレエやったんですね」って言い合ってました(笑)。

踊られた皆さんからそのような話を聞いて実のところ驚きました。ヴィルトゥオジティを否定するとか、バレエやモダンダンスの持つ物語性、技術の誇示とか特権性、そういったものを一切否定するものと思っていましたので。

むしろ聞きたいのですけど、たとえばバレエのベースがある私があれを踊った時に、あ、バレエだというふうに見ました?

いえ、全くそのようには見ませんでした、私にバレエの経験がないせいかも知れませんが。むしろ寺田みさこさんの体に、足が外旋するとか、あるいは足首、ポワントの時に甲が伸びますよね、そういう体の使い方がデフォルトとして入っているのではないかなと思えたんですね。で、そこを出さないようにと、ご自身の中のバレエ性と振付の指示との間で格闘しながら動いていらっしゃるんじゃないかしらと。そういうことはなかったですか?

ああ、なるほどね。そういうこと・・・なかったですね。

それは私が、理屈をちょっと先走らせて見た可能性があります(笑)。

いやいや、いろんな見方があったほうがいいと思いますよ(笑)。教えに来たマノーさんが最初に言っていたんです、「ウォーミングアップどうしますか、私たちがやるときはバーレッスンやるんですよ」って。へえーって思いました。ああ、バーレッスンやるんやって。それで『Trio A』もバレエの要素で出来ているということが分かったんですけれど、私としては逆に、翻って、「じゃあバレエのテクニックって何のことを指してるんだろう」っていうことを考えたんです。

なるほど。

バレエというと多くの人は「白鳥の湖」、「眠りの森の美女」を連想しますから、バレエって物語と思っているけれど、バレエの「パ」の一つずつにはまったく意味がないんです。物語は後付けなんですよ。グランドバレエ、いわゆるチャイコフスキーの三大バレエなどよりもメソッドのほうが先に出来ていますから。だからターンアウトするのも機能性なんですよね、もともとは。股関節をまっすぐの状態のまま足を横に上げる、こうやったらこうなる、といった機能の問題としてターンアウトというのがあるし、脚を上げたりするというその一つずつには全く意味はないんです。物語を追っていけるのは音楽のドラマ性とパントマイムを後付けしているからで、パの一つ一つにお芝居的な意味は全然ないんです。このこと自体はよく学生と喋っていたことで、バランシンも物語性を排除して純粋なバレエを目指した人ですよね。そのへんはもちろん有名な話だけれど、今回さらに、先ほどおっしゃった足の甲の高さとか、バレエで求められるスタイル、脚が長い方がいいとか、顔は小さい方がいいとか、細い方がいいとか、そういったことが、そもそも本当にバレエのメソッドが立ち上がった時に、何か関係してたんやろか、後付けなんちゃうかなって。これは私の勝手な解釈なんですけれど。

なるほど、そうですね。そう思われたのはこの『Trio A』に出会ったことでバレエの価値観や美学といったものが白紙になってしまう感覚があったのですか。

バレエというひと言でイメージするものを、もっとバラバラに出来るんじゃないかなと思ったんです。甲の長さとか、そういうものを全部含めて「バレエってこういうもの」と一定のイメージで捉えてしまうと、『Trio A』がいかにバレエのメソッドで出来ていたかということと一致しないではないですか。だけどバレエの要素を使っているということは現実として突き付けられて、実際に踊ってみて確かにそうだったとなると、じゃこれはバレエの何を使っているのかと考えるわけです。そしてそれはやっぱりメソッドの力学なんですよね。

力学ですか。

メソッドのもつ機能性と力学。それとポジションです。だけどポジションと言ったって、バレエのポジションって、前か横か後ろか、みたいな簡単なことなんですよ。もちろんこう足を回したりもするけど、基本的にバーレッスンって、脚を前に出すか横に出すか後ろに出すか、だけなんですよ。

確かにそうですね。

そのシンプルさが、バレエがこれだけ普及した理由なんだろうな、とも思っています。バレエの削ぎ落とされたシンプルさ。舞踏家の笠井叡さんが「空間には無数の点がある」って言われていて、なるほどなあと思います。先ほどの振動の話じゃないですけれど、そのくらい無限に広がりがあるというダンスの思想としては興味を惹かれます。それに対してバレエの前とか後ろっていうあの分かり易さ。

前、横、後ろに還元しているわけですね。

そう。踊りとしては「無数の点」の方に共感しているのだけれど、ただ、この一番中心のラインと前に出した右足の足先との関係、反対の軸足と骨盤との関係、右手が向く方向・・・大雑把なようだけど、前、横、後ろとその空間の中での身体の位置関係との感覚とか、自分の頭のてっぺんと天井の間の空間がどのくらいかとか、天井がないことにもできるよね、といったように、見ている人の空間を踊っている人の空間が広げてあげたり狭めてあげたりすることは、照明がなくてもできるんですよ。

空間の感覚もバレエの機能性によって自在に表現できると。

そうなんです。そのバレエのもっている最もシンプルな機能が、もしかしたら先ほどの甲の高さ、八頭身的なものが美しいっていう、いつの時代かの美意識と結び付いてずっと今日まで続いている。それがある種の男性から見た女性像にもつながっているかもしれないし、そういうもの全部ひっくるめてバレエになってしまっている。イヴォンヌ・レイナーも、エモーショナルなものを否定していったのですよね。詳しくはないですけれど、当時は世代としてもマーサ・グラハムの存在が大きかったでしょう。

グラハム的なものに対して「NO(ノー)」を突き付け、ダンスからエモーションを切り離せと言ったのだと思います。

そう考えた時に、一番強く思ったのは、スタイルとか体そのもののラインとか、いわば八頭身の美学とでもいう価値観とバレエのメソッドは切り離して考えられる、ということだったんです。

大変に納得のいくお話ですね。最初、バレエと聞いた時に多くの人が意外に思ったように、『Trio A』がバレエで出来てる?というクエスチョンから始まり、踊ってみたら確かにそうであり、それならばバレエというもののイメージをもう少し分断して考えてみようとしたとき、確かにバレエの要素を使っているということが理解できる、ということですね。

それにプラスしていうと、以前にトリシャの踊りも映像を通して完コピしたことがあるんですが、『Trio A』のほうも今回踊ってみて、何が面白かったかというと、その面白さは、分断のされ方だったと思うんですよ。

分断のされ方ですか。振付の?

何といえばいいか・・・根拠がないっていうか。この動きからこの動きに繋がっていくときの根拠がないっていう感じがある。自然な流れってあるんですよ、きっと、体には。こう行ったらこう行きたくなるよねっていう。また比較になってしまいますが、トリシャの動きについて、「京都の暑い夏」(注:毎年京都で開催される国際ダンスワークショップフェスティバルの通称)をある年、見学しにいったことがあるんです。あるワークショップでトリシャのレパートリーのあるパーツを練習していたんです。それを見た時、どうつながっているのか、なぜこの動きの次にあの動きにいくのか、ということが分からなかったんですよ。動きが読めないっていうか、それが見ていて面白いっていうか。こう来るのか、ああ来るのか、というのが意外な感じなんですよね。ところが、次の年にそのワークショップを受けてみたんですけれど、講師のアビゲイル・イェーガーが重量を感じるためのワークをものすごく時間をかけてたっぷりやるんですよ。空間のこととか、体の重さを感じる、みたいなことを、毎日、毎朝。

基礎トレーニングとしてですか?

そうなんです。それで、そのワークショップの最後の日に遊びで、去年やったパートをやってみようということになったんです。そうしたら、去年見ていて全然解読できなかった動きが、ふわってできてしまう。

その基礎トレーニングをやったおかげで?

そうです。それはつまり力学のつながりというか、ちゃんと根拠があるということだったと思うんです。ここで重さがこう来ているから、あ、体はこっちに行くよね、って、自然に。それに対して、イヴォンヌの動きはやっぱり違うと思うんです。意図的に、こう(手をハサミにして)、切っているのかなって。

分断している。切り刻むというか。

そう。前の動きを引きずらないというか。3回まわったらやめる。すぐやめて次の動きに行く。その繋げ方というのが結構大事なのかなって思ったんですね。その「やめる」とか「捨てる」みたいなことが。そんな感じが面白かったですね。映像で見たときには、根拠がなさすぎて、何なんだろうこれは、と。じゃ、いったいその根拠がない中で、どうやって何を選択していってるんだろうな、この人は、といった謎がすごくあったんですよ。それが実際にやってみて、そこに一つバレエの要素が入ってきたときに、ちょっとだけ腑に落ちるものがある。

切り刻まれていたはずのものが・・・

切り刻んではいるけれど、もとの脈絡みたいなものは完全に否定されているわけではなくて、何かそういうものがあったうえで、あ、この辺で一回切って、次は全然ちがうところからスタートしていく。そういうことなのかな、と。想像ですけれど。それは、体の動きを分断することでもあり、意識を分断することでもあり、その感覚が楽しいっていう感じが私にはありました。分裂していくという感覚が好きなので。分裂していくというのは、ものすごくいろんなことを一気にやらないかん(笑)みたいなことですけれど。

上演空間についてはいかがですか。初演時を参照したアーカイブ空間の構築が春秋座で試みられました。あれはアーカイブ資料の一部として踊りが展開している状態を意図したと考えられますね。

演出上のコンセプトだろうなとは思いますし、一つの研究の形として理解はできます。ただ、ようやくポストモダンダンスが取り上げられる機会でもあったことを思うと、展示資料も含めてより多くの人に見てもらいたかったですね。私の周囲の学生などでもこの時代に関心を持つ人は少ないので。誰に関心を持ち、どんなことをしていきたいかはそれぞれですが、海外からいろんな情報が入ってくる中で、あの部分だけが飛ばされている。これは結構問題なのではないかなと思っています。あの時代の、ジャドソンの、いろんなものが相まって、運動として社会の中に何か巻き起こす、あの実験精神はスペシャルなものだと思うんです。そのあとにもいろいろ実験的なことは起こっているけれど、固まりとしてあのように起こったことの意味は重要だし、そこで一回ダンスが問い直されたということが、絶対今の世界中のダンスに影響していないわけがないですから。それを知らずに若い人たちが今のダンスだけを見るのと、歴史の中に今のものがあるということを全部受け止めるのとでは全く違う。次のものを作っていく若い世代への期待感も含めて、そう思います。

やはり関心はまだまだ低いのでしょうか。同時期に舞踏が起こって、日本ではそちらの影響が強かったこともあるとも聞きます。ヨーロッパではノン・ダンスと呼ばれる傾向が出てきた頃にアメリカのポストモダンダンスを見直す動きが始まったと言われますね。

今なら、塚原悠也さん(注:パフォーマンス集団コンタクト・ゴンゾのリーダー。『三部作』を振り付けた3人の振付家の一人)が、まさにというか、ポストモダンダンスを引き継いでいると書かれたりするようですし、彼自身カニングハムとかトリシャ・ブラウンの著書を読んだりもしているようです。コンタクト・ゴンゾをポストモダンダンスと結び付けて見る人は結構いるんじゃないかなという感じはしますよね。

今回の経験は今後ご自身の活動の展開においてどのような意味をもつことになるでしょう。

ひとつは今言ったように、ポストモダンダンスという動向にここできちんと光を当てて、若い世代にも是非知ってほしいということ。私もまだまだ勉強したいのですけれど、美術を学ぶ学生がマルセル・デュシャンを飛ばすってあり得ないではないですか。どなたかが言っていましたが、ダンスにおいてこれを飛ばすということはデュシャンを飛ばすことに等しいのではないかって思うんですよね。もちろん、バレエからイサドラ・ダンカンが出てきたときも、バレエのあの衣装はなに? トゥ・シューズってなんやねんっていう疑いからトゥ・シューズを脱いだように、すべて何かが新しく生まれる時というのは前のものに対する疑いがあるのですけど、その疑い方の超絶極端な例っていうのがポストモダンダンスだと思うんです。以前、大学で担当した一回生のワークショップ授業で、とにかくダンスのいろんな映像を2時間くらいの枠の中で見せるということをしたんです。その中でトリシャの壁歩き、美術館のビルを上るもの、旗を振っているものとか、あのあたりの初期の実験的なものを見せたんですよ。すると演劇の、今演出をしている男子学生が私の所へ来て、先生、どうしても僕にはあれがダンスとは思えないんですけど、って言ったとき、「してやったり!」って思ったんです、それが狙いですって(笑)。一回そこをひっくり返す、ということを、特に若い人に早めに知ってほしい。脳味噌ができるだけ柔らかいうちにこのことを勉強してほしいなと思います。

もう一つは、やはり先ほど話されたバレエの体系、八頭身の美学への疑いでしょうか。

そうですね、これに気付いたことは私にとっては本当に大きかったです。バレエの見方、バレエのメソッドの見方に対して、私自身がいわゆる型通りのものとは違う捉え方をしていたと思っていましたけど、あ、まだまだ解体できる、もっとバラバラにできるのだろうなということに気付いた。これは大変大きな経験でした。(了)

(2月20日 京都市内にて 聞き手:竹田真理)

 

■寺田みさこ(ダンサー・振付家)
幼少よりバレエを学ぶ。1991年より砂連尾理とユニットを結成。「トヨタコレオグラフィーアワード2002」にて、次代を担う振付家賞、オーディエンス賞をダブル受賞。自身の作品を発表する傍ら、石井潤、山田せつ子、白井剛、笠井叡など様々な振付家の作品に出演。アカデミックな技法をオリジナリティへと昇華させた解像度の高い踊りに定評がある。

 

■竹田真理
ダンス批評。関西にてコンテンポラリーダンスを中心に取材・執筆活動を行う。毎日新聞大阪本社版にレビューを執筆するほか、ダンスワーク(ダンスワーク舎)、シアターアーツ等の批評誌、公演プログラム、ウェブ媒体等に舞台評、テキスト、インタビュー記事等を寄稿している。