<はじめに>

 私とポストモダンダンスとの最初の接点は1980年代後半くらいだったと記憶しています。それは京都大学西部講堂で見た「川村浪子(パフォーマンス・アーティスト)」氏のパフォーマンス。1メートルを60秒、1時間かけて60メートルの「歩行」を拝見したのがきっかけでした。「歩行」そのものは極めて「日常的」なのですがゆっくりというよりも超スローで、その印象は、2本足で歩くとはこんなにも美しいのかと、人間の本質そのものを自分の内に観たような感動を受けたのです。

川村浪子氏は当時パブリックなスペースでも全裸という挑戦的な出で立ちであったため、彼女の琵琶湖畔での公演中、私たちスタッフは警察や役所の方と体を張って交渉?せざるをえませんでした。その頃は“東京シーン”という浜田剛爾(はまだごうじ/1944〜2016)氏主宰の過激なパフォーマンス・アートの会が度々京都でも行われていました。そこで私は“タスク/task”なる言葉がアートの形態として定着しているということを知ったのでした。

ところで、川村浪子氏はポストモダンダンサーではないのですが、アメリカンポストモダンダンスの母胎であるアンナ・ハルプリン(Anna Halprin1920〜)から強く影響を受けたという体験をお聞きしました。この出会いがアメリカンポストモダンダンスへの扉でした。

川村浪子氏を私たちが企画・主催した<美のフィールドワーク> ( Harvesting Beauty in the Field : 1991年-1994、京都精華大学・京都芸術短期大学共催)というワークショップ・フェスティバルにお呼びした時に、当時京都ではまだあまり聞きなれない「コンタクト・インプロビゼーション」の手ほどきをしていただきました。それが引き金となり、サンフランシスコのアンナ・ハルプリンのワークショップに出かけ、またウイーンの国際ダンスキャンプ(アートディレクタ-:イスマエル・イヴォ ISMAEL-IVO 1955~)に出かけ、そこでダンスインストラクターのニーナ・マーチン(Nina Martin)氏から後に<View Point> へと発展していく「グループ即興」の技術を教わり、大変刺激を受けました。私はアメリカンポストモダンダンスの一つの考え方、すなわち「ダンスの外へ」を直接実感する最初の一歩を踏み出しました。

 

<2歩目>

2004年にオハイオ州はグランビルという町のアメリカでも歴史の古いデニソン大学のダンス科で、半年ほど教える機会がありました。

そのダンス科にいらした3人の教授は揃ってアメリカンポストモダンダンスの洗礼を受けたダンサーであることから、学期末の発表会に「ダンスの歴史」と銘打ったポストモダンダンスをフィーチャーした企画が決まり、アシスタントプロフェッサーとしてプロジェクトチームに参加しました。生徒も先生も2ヶ月前からリハーサル体制に入り、追い込みでポストモダンダンスの作品に取り組んだのです。

そこではダンス関係者の記憶とビデオ映像を頼りに、意見の対立も結構ありながらも、とても有意義な教育がなされていくのです。プロジェクトではダンスを基調としながらも遊び心がいっぱいでゲーム性の高いグループ作品が選ばれ、生徒達は嬉々として取り組んでいました。

学生たちにとってこのプロジェクトはダンスの歴史を身体で受容し、頭でも討論を通じてその哲学を自分に引き寄せ、また西洋の美術史や前衛芸術運動との関係が教科書で終わらず現在の生活へとつながってくるようで、私は心底羨ましいと思いました。

 

<えッ!マース・カニングハム?>

私の上司が微笑みながら「マース・カニングハムのソロやってね」と軽く言われ、当時アメリカナイズされていた私は「オフコース」などと大口を叩いたのでした、後悔先に立たず。

連日、彼の秘蔵のビデオを参考にしながらトレースしていましたが、なぜ当時、多くのアメリカの若いダンサーが彼の元に集まり、その存在に強い刺激を受けたのかがよくわかりました。この頃のアメリカのダンスシーンは戦後ヨーロッパの先端芸術をいち早く受け取り、若々しい自信に溢れていたようで、ビデオからも彼の求道者としてのオーラが伝わってきます。

マース・カニングハムの短いソロはグループ作品とは違い、基本的に「自身のダンス技術への反抗」に貫かれていると受け止めました。まさに舞踏を観ているようでした、なぜなら舞踏も「肉体の反乱」を標榜する時期がありましたから私に彼のソロが課せられたのはなんとなく理解できたのです。

私の取り組みは“スピード感と自身の技術への怒りやその技術を打ち消そうとする強い意志” でした。担当の先生とのディスカッションはダンスそのものについてよりは、アメリカが抱える社会矛盾や憲法論議から多様な移民国家のアイデンティティ、彼にまつわる映像、特にジョン・ケージと呼応して切り結ぶ舞台についての討論など。パイオニア精神にあふれた彼の生き様は見事だと感じました。

私が結果としてカニングハムを踊れたとは決して思っていませんが、彼の踊りは政治的(ベトナム戦争を含む社会的問題意識)、芸術的(1950−60年代の学際的パフォーマンス・アート運動からの刺激)でボーダレスの同時代性を呼吸した典型だと痛く感じ入り、“コンテンポラリー”の持つ意味を一人で納得していました。これは戦後の前衛芸術運動の実験と失敗を重ねた舞踏の「激しい季節」と大いにオーバーラップするものです。

 

<日本のモダンダンス>

生前、若松美黄(わかまつみき/舞踊家/1934年〜2012年)氏がシンガポールのダンス会議で私の舞踏レクチャーをお聞きになり、「勘ちゃん、英語でよくできたね、でもね、土方巽や大野一雄から始めるのもいいけど、日本のモダンダンスはね、最初はみんな舞踏みたいなものだったんだよ。だから日本の舞踏を根元から掘り下げるなら初期の日本のモダンダンスをもっと研究し給え」とアドバイスをいただきました。それは私のダンス作品をご覧になって手厳しい批判をくださった長谷川六(ダンス評論、ダンスワーク主宰)氏にも言われたことでした。しかし、私は1981年に白虎社を退会し、舞台照明を学んだ後、自分の舞踏団を作ったばかりで、驕っていて素直に聞けませんでした。

しかしその後、日本のモダンダンスの父、石井漠の周辺などを調べていくと、初期の作品などは舞踏以外のナニモノでもないと思いました。日本の舞踊史を考える時、舞踏とモダンダンスの間にあるひび割れがアカデミックな手法で埋めることができたら、今後に続く日本のダンサーにとってもっと風通しの良い環境ができるのではないかと感じるのですが如何でしょう。

 

<未完または未消化>

アメリカンポストモダンダンス運動は間違いなくダンスの歴史にエポックメイキングな刻印を残しましたが、「一見技術的には簡単そうだ」という点が舞踏とも共通しています。

確かに超絶技巧など一切ありません(多分)、しかし、それぞれの作品化されたものには緻密に試行錯誤を経た過程で思想や理論がサンドイッチされています。日本の90年代の一時期、私の周りのダンサーは流行病のようにポストモダンダンサーを標榜していたと記憶していますが、日本におけるアメリカンポストモダンダンスは未消化なまま、専門家は別にしてコンテンポラリーダンスへとスライドしていったように感じています。

ただ、別の見方をすると、結局のところポストモダンダンスという思想と実験は多分にサイクルの早いアメリカ的な運動であったという印象を持っています。「人の中心は“情緒”である」(岡潔/数学者)という日本人の発想の根本にある「湿り気」故に、「乾いた知」では割り算をしない日本の風土に馴染めなかったのではないかというのが私の解釈です。「ダンスは肉体で踊り、舞踏は肉体が踊る」(長谷川六/ダンスワーク主宰)という言葉にもそれは暗示されていると感じます。

 

<アジアの身体性−1>

アメリカンポストモダンダンス運動はダンサーによるダンスの改革でした。そして米井澄江(コンテンポラリーダンサー、NY在住)氏曰く「当時の優秀なアメリカのダンス評論家の力量と、その頃のニューヨーク市は安く住めて実験ができる環境だった」こと。これは非常に大事な条件です。そしてアメリカンポストモダンダンスは運動としては未完ではなく、その役割を終えたと思います。

ところで、私が参加した第7回サンフランシスコ舞踏フェスティバル(2001年)で、武井慧(1946〜/数少ない日本国籍のポストモダンダンサーと呼ばれた伝説的なアーティスト)氏のソロを拝見する機会がありました。舞台上に象徴的に置かれたオブジェは道程を暗示するやや芝居っぽい装置でしたが、ソロの踊りは“パセティック”(市川雅/1937-1997/ダンス評論家)な憂いと湿り気で暗くもがき、反転して明るく繊細で異形のコスチュームと相まって、これはポストモダンダンスというより舞踏じゃないの?とその当時思いました。

つまり、アジアの身体性を持ったパフォーマーがダンス技術を使わないでスローで動き、顔の表情があると、私も含めて観客は舞踏だと感じてしまう。特に彼女のようにアレンジメントダンス(バレエやモダンダンスの技術を使った踊り)を意図的に拒否するとそういう見方に収斂してしまいます。アメリカのダンスシーンで有名な“エイコ&コマ”も、本人たちのスタンスとは別にそういう見方をされていると思っています。

一方、舞踏はむしろダンサーではない人たちを意図的に参加させてきたことや、戦後の日本の高度成長による光と影、熱と葛藤(キャバレーで容易に稼げてしかも時代は公害・安保闘争など社会的問題に満ちていた)、加えて、三島由紀夫、瀧口修造、澁澤龍彦などそうそうたる当時の東京文化サロンの評論家や文学者の「特権的肉体への賛辞」などが未完の構造を作り上げ、未だに「舞踏とは何か」を問い続けさせ、それは海外にも感染していきました。これはある種見事な戦略ですが、私も含めて舞踏ダンサーは不器用で、舞踏を続けるしかない、という強み?もあったと思います。

 

<アジアの身体性−2>

さて、私はビートルズやLSDなどに象徴されるヒッピー文化をアカデミックな視点でもっと考えたいと感じています。例えば、西洋の精神世界に巨大な影響を与えたアジアの死生観「チベットの死者の書」などが英語に翻訳され(英訳Evans-Wentz 1878 –1965)西洋世界に浸透したのには、ヒッピー文化のうねりが底流にあったことが大きいと思います。故にアメリカンポストモダンダンスも、それに呼応するエコロジカルな思考を持つ知的な「回帰」の一つだと言え、そう言い切るとするなら、舞踏も同様に東北回帰や体内瞑想と呼応する「回帰」というキャッチで括ることができそうに思います。

ただ、この「回帰」という括りはUCLAのウイリアム・マロッティー氏が“本質主義の罠” として最も批判警告の対象にされていることで(William Marotti、“日本の1960年代前衛芸術運動と土方巽、即ち土方の舞踏を評価する諸問題”) 、ある意味私も罠にはまっているのですが、あえて言うと、ポストモダンダンスと舞踏が同時代的に身体と風土への回帰精神を共有したこの思想的潮流は、21世紀という肉体の世紀に流れ込んでいると思われます。

「アジアの身体性」というキーワードは西洋的なモダニズムの足元がふらついてきた流れに乗って言われるようになったのですが、あまり安易に使えない広大なカテゴリーであり、迷宮への入り口だと言えます。しかし、直感的には、近・現代というアスファルトを剥がすとそこにはアジアの大地が見えている、その豊穣な大地の下にはアフリカの地層が予感されます。根本的に、我々アジアの風土に生まれた人種には西洋近代のグローバリズムに絡め取られたくないという思いがあります。なぜかというと、舞踏の掘り下げた肉体の暗闇は日本の近代の歴史的経験だけにとどまらず、世界中のアンダーグラウンドに存在するからです。

私は2009年頃からアメリカ大陸を何度も縦断し、その間興味を持って考え続けていることがあります。それは、なぜ北アメリカよりラテンアメリカの舞踏コミュニティーのほうが日本の舞踏への切り込みが深いのかです。今のところ、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルなどで私の出会った舞踏家達はシャーマニスティックで、過酷な歴史にうごめく亡霊と共振する身体を持っていると感じます。彼、彼女らは舞踏に流れるアニミズムの血痕、つまり「アジアの身体性」に限りなく近いという思いに至るのです。

 

<Trio A参加>

さて、2017年の8月、中島那奈子氏から10月のイベントでの「イヴォンヌ・レイナー」の作品へのお誘いをいただきました。どんな経緯で私などにとは思いましたが京都造形芸術大学とはその前身の京都芸術短期大学以来ご縁も深く、また尊敬するやなぎみわ氏からのご推薦などもあり、自分の運動能力も顧みず2つ返事でお引き受けしてしまったのでした。早速『Trio A』のビデオを拝見し、見れば見るほどハードルの高さを感じ、内心怖気付くのでした。

しかし、落ち着いてデニソン大学での記憶などを手探りに、私のやり方でコピーしようと思い、ダンサーの動きからストーリーボードを1ケ月近くもかかって起こしました。そのページはA4に30枚ほどの量です。それをトレースしながら今度はセクションごとに「舞踏譜」に置き換え、繰り返しコピーしながら気づいたときは10月、そして「その他大勢」と思いきや私以外の5人の参加メンバーを見てさらに驚き、2017年10月7日のリハーサル当日となってしまいました。

 

<強力な共演者達>

造形大でのリハーサルで指導してくださるコーチはベルギーからいらしたベテランの厳しいマノー(Ms. Emmanuele Phuon)氏。

選りすぐられた挑戦者はすぐに振り付けを覚えてしまう東京からいらした:神村恵氏。

若い感性とサプライズ連続の喜多流能楽師:高林白牛口二氏。

エレガントな動きにクレームをつけられてエレガントに微笑んでいらした:寺田みさこ氏。

見た目あどけないのに成熟した正確でシャープな:西岡樹里氏。

唯一私に近いスローが好きで独特のはんなりした京都生まれのような:ボヴェ太郎氏。

という大変魅力的な挑戦者たち、そして丈夫な堪忍袋をお持ちの私なんかよりよっぽどダンシーな通訳者:宮北裕美氏と、毎日5時間以上もじっと優しく見守り続けてくださったオブザーバーの先生方。

 

<Trio A・リハーサル>

私はあれだけ準備したのに、初日で行き詰まりの連続でした。すなわち実際の動きはオリジナルのビデオとは似て非なるものでありました。

まず、アバウトでいいと思っていたのに大変に繊細、そしてやはりというかバレエの基礎がないとついて行けない(少しはかじったのですが)。私はマノー先生の冷たい視線を背中に感じつつひっそりと目立たないように、でも必死でついていったのでした。もちろん私には残業の“タスク”が毎日課され5時間休憩なしでシャツを5枚も着替え、連日バケツ一杯の汗を絞るのです。リハーサルが終わると造形大の3階の階段はメキシコのテオティワカンのピラミッドのように思え、まさに毎夜ゾンビ状態で帰路に着いたのでした。

しかしながらイヴォンヌ・レイナーの『Trio A』を体験して、今までのアメリカンポストモダンダンスとは違うもっと緻密な思想や発想を体が記憶していきます。私が最もできない部分、マノー氏に注意されたことそのものに多くの思想が潜んでいるのでした。

1)存在感を出さないで!消しなさい!消しなさいったら!

2)客に目線、顔を向けないで!

3)ピリオドやメリハリをつけないで!

4)水が流れるようにただ通過するのよ!Mr. Kan!

さらに驚くべきことは、マノー先生は私に背を向けているにもかかわらず、私の間違いを指摘されるのです。

ところで、私は舞踏の先達に比べてそれほど存在感があるとは思っていませんでしたが、ただメリハリはどうしても起こってしまうし、観客へのまなざしも意識せずとも体が反応してしまいます。それらは5日間のリハーサルで結局修正できていなかったし、本番もそうであっただろうと思っています。只々必死で忘我没入でした。しかしながら、体は悲鳴をあげていましたが心は大変面白がっていました。

ピリオドやメリハリをつけずにこの6分近い作品がひとつの「パ」のようにスルーし、最後もただ消えていく、まるで一呼吸の中に収まるように…ここには私のワークショップにおいて始めにご紹介した川村浪子氏から教わり、それを援用して必ずメニューに入れる「ナチュラル・ウオーク」という、「日常と非日常の境目をスタイルにする」という私の舞踏コンセプトに共通するものがあるのです。

つまり、「舞台」と「日常」、あるいは「踊りではない」と思っている領域の中に取りこぼされた「踊り」への可能性が存在する所以です。

したがって、モダンダンスの物語性、ロマンチシズム、感情表現、起承転結、繰り返しなどへの懐疑、そして踊りの本質への探求と再構築。

それらはいわゆるダンス芸術における一週遅れのモダニズムといえるでしょう。(モダニズムの基本原理は各媒体の「純化」「自立化」の進行として(中略)その同じ原理の否定・「反芸術」として記述される。外山紀久子/「帰宅しない放蕩娘」)

ですから『Trio A』は、私が考えるアートにおける「モダニズム」をダンスの世界に持ち込む強靭で一見退屈な勇気ある作業。(異論はあるでしょうが、平田オリザの「静かな演劇」やサミュエル・ベケットの作品との共通項を私は感じます。)これに対して世界中にある「舞踏作品(即興も含めて)」の97%は退屈でしょ? そして、退屈の先の例外的な「量」が「質」に変容する残り3%にあるもの、石井達郎(舞踊評論家)氏が指摘され、私も好きな言葉が、あらゆるダンスに求めたい<肉体の強度>なのです(”衰弱体”であったとしても)。

ざっくりと言えば、トリシャ・ブラウンの「日常と非日常のボーダー」やスティーブ・パクストンの「スポーツ性、ゲーム性」、アンナ・ハルプリンの「神話の再構築」などがおしなべて「舞台意識の枠外への拡張」であるのに対して、「土方舞踏」はむしろ舞台の奥座敷に隠れた亡霊たちであり、前近代の一見無秩序な再登場、すなわちポストモダニズム的であろうと思います。ただ、舞踏は西洋的なクールな思想ではなく、戦後に日本人が黙殺してきた「怨念」や「リベンジ」という情緒が噴き出して出現したといった方が正しいように私は思います。

 

<幾つかの思い>

ほとんどの振付家がそうだと思うのですが、一つの作品がほぼ完結するのに10年ほどかかります、少なくとも私の場合はそうです。そして創作の初期は50%以上不安定なジョークのようなものです。厳しいマノー氏(本当は優しい)はイヴォンヌ・レイナーからお墨付きをいただいた厳格な振り付けをするミッションを持ったプロですから、そこには自ずと限界があるのですね(多分)。つまりオリジナルを変えられないしそれをしてはいけません。ただ、幾つかの点で、もしイヴォンヌ・レイナー自身がこの場にいたら、サミュエル・ベケットが自分の作品を演出家として変更したように変えたかもしれないと思うことがあります。

一つには場です。おそらくこの作品は観客を席に座らせたプロセニアムの舞台ではない方がいいのではないかと思いました。つまり行きずりの人が見せ物を覗くような、特に照明の意識もなく、あたかも敷居のない日常の一コマみたいな感じという意味です。

2つめとして、コスチュームですが、私にとってそれは風土へとつながる肉体の一部として大事なポイントであるという意味から、コスチュームとフラットシューズがどこまで必要条件なのかをもう少し突っ込んで議論したかったと思いました。

思うのですが、歴史を経た(老いた)作品の運命は現代とどう向き合うのか? できるだけ忠実に歴史を再現するのか、それとも、時代の変化にスパークして大胆な形式の変化を可能にすることがかえって継承の真実となるのか? 例えば日本の伝統芸能といえども個的な葛藤と創造性がなければ継承などありえません。とどのつまり「継承」とは一体なんなのでしょう?

 

<継承について>

避けられぬ「生老病死」の中でも「死」とはよくしたもので、「死」なくして人の成長発展も、そして「生」すらもないに等しいと思います。

私の最も尊敬する舞踏家室伏鴻(1947〜2015)は生前よく「俺は土方巽に最も逆らった、舞踏からは一番遠いアウトサイダーだよ」とよくおっしゃっていました。

しかし私の考えでは、正当な継承者とみなされる人よりアウトサイダーやフリンジと見なされていた人が、気がつけばむしろメインストリームに押し上げられるという現象にパラドキシカルな運命を感じます。芸術が文化としてサバイバルするプロセスには再現と継承、そして洗練が起こります。

事は単純です。生身の体を使った芸術行為は脆弱ですから、人も作品も老を迎えると何か残したくなる、それもできるだけ自分のアイデンティティに近いものをです。2000年代初め、パリの劇団との合作でサミュエル・ベケットの短編に舞踏を挿入しようとして「ベケット財団」ともめ、舞踏はキャンセルされたことがありますが、台本に忠実であることを信条とするやり方もあれば、形式よりも若いダンサーによるパッションや肉体の強度の再現こそを重視する方法もあるでしょう。あるいは折衷案も有効かもしれませんが、これらは創作者の作品への態度如何です。

私自身の疑問と矛盾するのですが、エポックメイキングな出来事はしっかりと形に残し形式を守り、変な事は絶対させないという姿勢を貫いて博物館に飾ればいいと思います(これは皮肉ではありません)。そして頑なに妥協しない姿勢を持つことによって、アウトサイダーに挑戦の強いモチベーションを与える装置となることです。若者のアイデンティティを鍛えるには、ぶちあたるべき強固な壁が必要ですから。

ほとんどの狼は老いを迎えることなしに滅びの道を行き可愛い犬が余命を預かる。今の舞踏も半世紀もサバイバルし、洗練の途上です。まあ未だにちょっとだけ前衛の尻尾を引きずっていると信じる人もいますが。

何れにしても「源氏物語」のように千年を生きてきたものには時空を超えて人をドキドキさせる若返りの泉があり、そこで重要なのはそれを発掘する評論家や研究者、つまり「伯楽」が必要なわけです。

私には一つだけ経験というか考えたいことがあります。1980〜90年代にインドネシアを這いずり回っていた頃に出会った影絵芝居(ワヤンクリット)です。NY大学のリチャード・シェクナー(1934 〜)氏は伝統芸能の成り立ちに厳しい目を向けていますが、ワヤンクリットのダランを頂点とする東南アジアの伝統芸能は、前近代の儀式から現代に至る見せ物という場において、時代に合わせて変化してスパークすることが最初から織り込み済みのオリジナリティーを保っています。お能や歌舞伎も今の漫画家残酷物語のように過酷な競争があればこそ、現代にも通用する形式を保ってきたと言えると思います。

すなわち、切磋琢磨し筋肉で出来た心臓がドキドキするための仕掛けが「継承」には必要であるという何の変哲もない結論です。もちろんそれが何なのかを私は知っています。

 

<おわりに>

『Trio A』の上演にあたっては、観客からの質問がいろいろ出るような工夫を凝らせるともっといいと感じました。理想ですが、できれば一般も含めた学際的なコンソーシアムの教育実習の一環であれば、多方面からのフィードバックをいただけるなど、嬉しい冷や汗が出たかもしれません。

振り返って、私はとても多くの熱い汗と示唆に富んだアイデアをこのプロジェクトからいただきました。老いを巡るテーマは待った無しの今日的テーマであり、『Trio A』の「老いぼれバージョン」や60歳以上のダンサーによる『Chair/Pillow』が将来ショーイングされることを想像しています。

兎にも角にも、このようなドキドキする芸術プロジェクトはあまり日本ではお目にかからないことを考えると、「京都は魔法陣」と誰かがおっしゃいましたが、「瓜生山」という芸術村もその一つなのかもしれません。

 

戊戌2月25日2018

文責 舞踏家桂勘

 

■桂勘(舞踏家、振付家、office PARADIX K. 芸術監督)
京都生まれ。1979年「白虎社」設立に参画、81年よりソロ活動。1986年マルチナショナル舞踏グループ「桂勘&サルタンバンク」結成。1991年からの「美のフィールドワーク~国際ワークショップフェスティバル」(京都芸術短期大学(当時)精華大学との共催)を皮切りにダンスの創作プロセスを共有する国際共同制作を続ける。現在はサミュエル・ベケットの舞踏作品を手がける。