中島 本日はどうぞよろしくお願いいたします。高林さんは京都喜多流の能楽師として、2016年に「シテ」として舞台に立つことからは引退されていますが、今回はどのような思いで依頼を引き受けて頂いたのでしょうか。

高林 天野文雄先生からお話を受けて、お引き受けしました。他の分野との交流にも関心があるのですが、地方に居てしかも小さな流儀だと、なかなか野村萬斎さんのようにはチャンスがありませんでした。体を動かすものに興味はあるものの、他の分野の舞台を見に行くこともほとんどございません。歌舞伎も生涯に数える程度です。器用じゃないですから、あれもこれもと同時進行の形でするようなことはできませんので、自分というものを守るということがやっぱり一番大事なんでしょう。

 

<Trio Aと和装>

中島 今回一番初めに高林さんにご参加をお願いする話を私から致しましたときに、足袋をお履きになってやるか、スニーカーを履くかというやりとりがございました。そこから、お聞きしたく思います。初めは足袋をお履きになりたいと高林さんがお話されていたので、能楽師は外で舞う時も足袋を履く例を含め『Trio A』を教えに来てくれたマノーさんに相談したところ、スニーカーで『Trio A』を踊る意味を説明してくれました。スニーカーを履いて踊ると足が滑らないし、実際、踊りづらいのだけれど、この作品にとってはそのことこそが大事なのだと。それを理解した上で足袋を履くかどうかの判断をしてほしいとマノーさんは言っていました。それをお伝えすると髙林さんは「それでは、スニーカーを履きます」とお決めになりました。これはどのようにお考えになったのですか。

髙林 いや、大して難しいことじゃないのです。やっぱりその場にふさわしいものを取り入れないと。一緒になってやる限りは、無理な主張にこだわる必要はないということです。あの場所で能と同じことをやってと言われたら、それはやっぱり靴を履いてではできません。そうではなくて、能と全然違うことでいいようでしたから、靴を履くことに別に抵抗はなかったのです。
それは靴を履くということだけにこだわるわけじゃなくて、すべてにおいてそうですよね。ですから、あの舞台の上で、私の体に染み付いた能の空気というものは自然に出ていたでしょうけど、それを誇張して表現してという考えは全然持っていなかったですから。皆さんの仲間として、同じように、同じ空気の中で溶け込みたいという気持ちが強かったです。それが靴という形に表れたのだと思います。

中島 スニーカーをお履きになることを決断されましたけれども、髙林さんは最後まで着物でご参加くださいました。それについてマノーさんとやりとりはありましたか。

髙林 いや、特に何もなかったですよ。自然にそのままで中に入れたような気がします。だって、同じことをするのではないですからね。『Trio A』そのものをやるのだったら、それは着物ではやりにくかったかもしれませんけれども、そうではなかったですから。かえって全然違う着物が効果的だったのかなと、今では思っていますけれども。

中島 私もそう思います。ただ『Trio A』そのものではなかったとお話されましたが、今回上映した『Trio A(老いぼれバージョン)』など、『Trio A』のバージョンというのは沢山あるのです。

髙林 催しの中でレイナーさんの映画を見なかったのがとても悔やまれるのですよ。

 

<能と見ること>

中島 お能との関連で、今日お聞きしようと思っていたお話がございます。ご子息の方の舞台で、髙林さんが後見をされることはございましたか。

髙林 たくさんあります。

中島 今回の『Trio A』でみさこさんと髙林さんがやってくださっているのは、Facingというバージョンです。これまでもあのバージョンは、他の都市で別のダンサーさんがやっています。髙林さんがどういう形で参加されるかについては、直前の話し合いがいろいろあったのですが、今回このバージョンを上演することはあらかじめマノーさんから言われていました。高林さんは『Trio A』を踊っていないとお話されますけれども、あれは『Trio A』なんです。『Trio A』の面白いところは、それこそいろんなバージョンがあるので、いろんな踊り方ができる。そういう作品なんです。それこそ車椅子の方が『Trio A』を踊っているものもありますし、裸で踊るバージョンというのもあります。一人だけではなくて、三人や十人で踊ったり、音楽があったりなかったりする。加えて、八十二歳のレイナーさんご本人が踊る「老いぼれバージョン」というのもあり、作品の幅の広がりというか、作品をどういうふうに上演するかにバリエーションがある、すごく希有な作品です。(*)

* 1970年11月9日にジャドソン記念教会で、星条旗のみを首から吊るして裸で踊る『Trio A with Flags』がレイナーによって発表され、このバージョンは昨年も再演されている。2014年には車椅子ダンサーが含まれる米国のダンスカンパニーAxis Dance Companyが、レイナー振付の『Trio A』をLinda K. Johnsonのコーチングで上演している。2017年にはレイナー本人が踊る『Trio A(老いぼれバージョン)』がデヴィッド・マイカレック監督によって撮影されている。

今回、初めて髙林さんが『Trio A』の稽古にいらっしゃったときに、ちょっとこれは踊れないと一言おっしゃったのが非常に印象的でした。でも踊ろうとされているというか、みんなの稽古に入っていこうとされていらっしゃいましたよね。稽古が始まって、椅子に座っていらっしゃらないで、立ってみんなの動きをずっと真剣にご覧になっていた。その後にマノーさんとか、他の方と一緒に動きを習おうとされていた。その姿勢とあの過程は、すごく大切なことのように感じておりました。髙林さんは<見るということ>に、すごく力がおありになるのではと、強く感じていたところなのです。

髙林 そうですか。

中島 踊っているダンサーの視線をもう一人が追い掛けるというあの『Trio A』のバージョンは、他のダンサーさんで以前に見たときは、私はあまり関心を持てませんでした。ただ、今回、寺田みさこさんと髙林さんがおやりになっているのを見て、このバージョンにこういう可能性があったのかと驚きました。というのも、これがシテと後見の関係を思わせ、作品の解釈を連想できると感じたのです。そこでこのバージョンでみさこさんとのやりとりを、高林さんがどのようにお考えになったのか詳しくお聞きしたいです。例えば、髙林さんとみさこさんが初めて練習された時点では、高林さんはもう少し動きが少ないように思いました。どう動くかとか、どのくらい動くかということに関して、どのようにマノーさんは言っていましたか。

髙林 最初はとにかく付いていく、追い掛けていかないとできません。ですから、先を越してはいけないですし、付いていっている、追い掛けていっているということが一番大事だろうとは思ったんですけれども。やっぱり何回かやっているうちに先読みが少しできますから、次はここ、こうくるぞということを想定しながらも、先取りにはならないように。先に行って向こうで待つというようなことにならないように、追い掛けていくということを主に考えたぐらいです。

中島 マノーさんからはもっと動いてとか、もっと動かないでというのは何も言われず?

髙林 いや、何も。彼女は何も言いません。

中島 そうですか。一番初めに試されたときに、髙林さんはほとんど止まっていらっしゃったように思っていたのですが、最後に舞台でおやりになったときには、それよりたくさん動きを付けられていると思いました。

髙林 まあ、慣れたということでしょうね。

中島 何回かおやりになって、少し慣れていらっしゃった。

髙林 勘さんがいっぺんやったでしょう。それを見て、これならもっとやりようがあると思ったのが一番なんです。

中島 なるほど。やっていらっしゃいましたね、勘さん。

髙林 彼もダンサーでしょう。

中島 そうです。

髙林 ですから、もうちょっと器用にされるのかと思ったら、すごく不器用でしたから。それなら私のほうがと思ったんですよ。あれを見て、何を求められているのかが分かったわけです。あの勘さんのお手本がなかったら、もっと私は戸惑っていたかもしれません。

中島 なるほど。視線を追い掛けていらっしゃるときに、みさこさんに対してはどんなふうにご覧になっていましたか。みさこさんの動きというか、みさこさんの踊りに対してはどんなふうにお感じになって、見ていらしたのですか。

髙林 みさこさんのほうは、もう完成されたもの、型というふうにまずは捉えていたのです。ですから、それを邪魔しないように。そして意味のある動きをしないといけない、邪魔をしてはいけない、先を越して、先取りして行って待っているようなことをしてはいけないぐらいが考えていたことです。

中島 私が面白いと思っていたのは、どこか高林さんがみさこさんを見守る部分がありながらも、みさこさんが動きを先行していく、その時に、どっちが先行するか分からなくなる瞬間があることです。そういう部分が駆け引きの面白さであると同時に、それをみさこさんと髙林さんがおやりになることで、見守りつつ翻弄される関係の全体像が見えてくる。能舞台において、指導者である後見がシテを見ているときの姿勢を連想させる要素があったのです。シテがその役を無事つとめることを支えるために、後見は控えている。そのシテに何かあったときには、ピンチヒッターになる位の高いポジションですが、日の当たるところにはいかないという役でしょう。その部分を考えさせるやりとりにも思えてきました。髙林さんがほとんど動かず、みさこさんを逆にコントロールするように見える形が、後見とシテの関係に近いかもしれず、髙林さんがほとんど動かれない初めの稽古の時点で、私はそのような連想を強く持っていました。ですが、より動かれるようになってからは、お能からポストモダンダンスである『Trio A』の方向に近寄ってこられた感じがありました。そのバランスというのも、非常に興味深かったです。これまでの上演ではこういったことは考えられてこなかったのですが、視線や<見ること>を経由して、お能でのシテと後見、観客についても考えていける振り付けかもしれないと思いました。
また、今回みさこさんの型は完璧だというお話をされていらっしゃいましたが、後見とシテの関係は師匠と弟子のような、教える・学ぶという関係と重なることもございますよね。また、今回はそれが男女の関係とか、年齢の関係とか、ジャンルやテクニックの違いとも絶妙に重なりあって、私ははっとしました。

髙林 これは後見ということじゃないのです。私の、人を見る目がちょっと他の人より強いのです。ですから、後見だからそれができるのではないのです。だから、私は指導者として、まだ至らない人、それから芸統の違うものに対して、つまり流儀が違うものに対しても、全部見るように常に心掛けています。自分の感覚で判断して、相手の至らないところとか、何を考えているのかというようなことが分かるように努力しているわけです。それが多分出ていたのだと思います。ですから、みさこさんが次どうするのかということを常に追い掛けていくということができ、相手を見るということに集中してすることができたのかと思います。

中島 なるほど。これは、マノーさんからお話があったかどうか分からないのですが、『Trio A』を含めて、イヴォンヌ・レイナーさんの作品のほとんどは<見ること>がテーマです。代表作である『Trio A』は、その問題が彼女の個人的な体の特徴と結びついています。実はレイナーさんは少し斜視なのですが、ダンスの振付が視線の問題と繋がっている。この作品では、一度も正面を見る振り、観客を見る振りがないのです。ですので、舞台では一度も客席は見ない。当初、この春秋座での『Trio A』上演では、私は初演時のように舞台上や客席を含めダンサーの周囲に観客を座らせるつもりでしたので、マノーさんと意見が対立しました。(**)というのも、客席と舞台を切り離して舞台の正面性を保つべきだとマノーさんが主張されたからですが、その理由は、この観客を見ない『Trio A』の視線の振りを実現しなくてはならないことにありました。

**『Trio A』は、1966年のジャドソン記念教会での初演では客がマットに座ってダンサーを囲むフラットな空間で、『心は筋肉である、パート1』として三人のダンサーによって上演されたものの、1968年のアンダーソン劇場での『心は筋肉である』上演時には、客席と舞台が切り離された額縁舞台で踊られた。また、レイナーによるソロの『Trio A』映像は、舞踊研究者サリー・ベーンズによって1978年に撮影された。

観客を見るということが大抵のダンスの振付であるにもかかわらず、あの作品は視線を問題にしていて、かつそれを回避しています。それはイヴォンヌ・レイナーさんご自身の生涯をかけた関心でもあって、自分が見られることと、自分を見ること、自分が見ることを多くの作品の中でいろんな形で試みています。ただ、それがダンスという分野では十分にできなかったから、映像作品を作るようになった。そして映像の作品でそれが形になってきたときに、もう一度ダンスに戻ってきて、ダンスでもう一回それが実現できないかいま試していると、私は考えています。

髙林 その観客を見ないということは、能のときにものすごく大事なことです。観客を意識したら能は成り立たないのです。つまり、人間の持っている動物的な感情の表現、泣いたり笑ったりするということを能は一切拒否していますよね。ですから、観客がどう思っているかということを意識しないほうがいいわけです。そこがちょっと似ているのではないですか。

中島 そうかもしれないですね。解決法とか対応する仕方は異なると思いますが、その関心が多分似ているのですね。

髙林 能をやっている人の九割ぐらいは能が演劇の一種と思っていますから、そういう能の形で制約された範囲の中で、人間的な感情、動物的な感情を出そうと思って一生懸命努力していますけれども、私はまったく逆です。そういう動物的な感情を一切否定しているものが能だと思っています。そういうことを超越して能を舞うようにしていましたから、私はあの『Trio A』を見ていて、なんかそういうものを感じたのですよ。

中島 なるほど。『Trio A』は、やっぱりそういうところをうまく振り付けた作品だったと思います。逆にそうであったからこそ、当時の批評家に、感情がないとか冷たいというふうに言われています。レイナーさんは、それが随分気になっていたようです。ですので、次の映像作品は感情的な要素を用いたメロドラマとか、そういう実験から始めています。

髙林 演技というか、ステージでいろいろパフォーマンスをやっている人と観客の間のつながりみたいなものがどのくらい重要か、必要か、まったく不必要かというのは、やっぱりやっている側の感覚ですからね。

中島 今、舞台芸術の研究者の中でもそのような話が始まっていて、観客論の必要性が叫ばれています。もちろんお能の中で言われている「離見の見」や「花」という議論はあるのですが、近代劇場において、観客と作品の関係性、観客とパフォーマーの新しい形、もしくは観客がどう反応するかについての議論は、近年たくさん出てきています。ただそれは、今までそういった議論が、舞台芸術の分野であまりされてこなかったことへの反動ですね。

髙林 いわゆる能評家(能評家、能を評論する人)と言われる人種の人たちがいますね。その人たちが発表する月刊誌みたいなものがありまして、そこにいろんな自分が見た能の評価を書いているわけです。能は型が決まっていますから、どこで何をするということは大体決まっているわけです。そこで、どういうことを書くかというたら、例えば、『伯母捨』だったら月を見る形が良かったとか、そういう技巧的なことの評論をする能評がほとんどです。ただ、私の『伯母捨』のときに、村上湛という能評家が−−まだ若い人ですけれども−−私の評を書いたのですけれども、そのとき能評が書けなかったんですよ。そういう普通の能評じゃないことを書いているのが残っています。ですから、それは能評としてではなく、彼自身のブログで書いています。(***)

*** 村上湛『古典演劇評論 好雪録』「2012/6/16 高林白牛口二の〈伯母捨〉」

中島 そこでは、どのようなことが書かれているのですか。

髙林 かいつまんで言うと、2時間の能を見て、その間じゅう、能とはなんぞやということを考えさせられたと書いてあります。どの型が良かったとか、雰囲気が出ていたとか、そういうことじゃなくて、能って何だということを2時間の間じゅう考えさせられたということを書いているのです。

中島 いいですね。

髙林 そういうふうに見るということは、普通の人はしないのですけれども。その人は私の能に限って、そういう能評を書くんです。他の人でも同じですけれどもね。私は能評で時々取り上げられるんですけれども、取り上げられていたんですけれども、大概そういうふうにして、私の人間性みたいなものを能の中に感じたというような表現が多いんです。例えば、『藤永』という能があって。『藤永』は本家じゃなくて弟分の者が、本家の主人が死んだために子どもが跡継ぎになる。跡を継ぐ者を横取りして、子どもを、つまり甥に当たる者を追い出して、自分がその跡継ぎになって領地を占有するわけです。だから悪者なわけでしょう。
それを私がやったときに、その悪者を髙林がどうやって表現するかに興味を持っていたが、まったくそういうものを感じなくて、髙林自身しか見えなかったというような能評を書いているんです。これもちょっと面白い書き方ですけれども。そういうようにして、わざと技巧的なところを見えなくしているというんですか。あまり目立たないというか、後で思い返したときに出てこないんですね。

中島 先ほど、お能を演劇としては考えていないとおっしゃっていました。そういうお考えと、何かになるという仕方の違いが、出ていらっしゃるんじゃないでしょうか。俳優が登場人物になりかわってしまう、近代的な演劇の在り方ではなくて、役者と役柄が二重になるというんでしょうか。その演者と表象されるものが同じような重みで同時に存在するという仕方がお能にあると思うのです。それは、ある種ダンス的な見方だとも私は思うのですが、それがおありになるのではないでしょうか。

髙林 能は役になりきるという言葉を使い、その者になりきるというのです。私は成るという言葉の使い方を模倣という意味じゃなくて、つまりある者を形どるんじゃなくて、自分がその者だというふうに考えているんです。そう考えないとできないんです。ですから、例えば、『安宅』の勧進帳なんかやっていても、弁慶になるんじゃなくて、自分が弁慶なんです。言葉としては同じようかもしれませんけれども。
だから、扮装(ふんそう)して、扮(ふん)して弁慶をやっているのではなくて、いつの間にか自分が弁慶そのものになっている雰囲気にならないと、能にならないと思っているんですけれども。それは能に限らないんですよね。だから、最後の研究会の日に、私がちょっと最後に素人として言った言葉がありますでしょう。年を取ったものはその年にならないとできない。年を取ってきたからといって、若い人がやっても、できないということを言ったと思うんですけれども。それはやっぱり能の中にも、私の能の中にはあるんです。だから、『羽衣』の天女も、天女を演ずるのではなくて自分が天女そのものになってしまわないとできない。

中島 いまのコメントと、以前髙林さんにいただいたテキストのこの部分が合うのですね。老女もののテキストのことをちょっと考えてきました。(****)

**** 高林白牛口二「老女物に取り組む」(「第76回喜多流涌泉能」公演チラシに掲載)

髙林 どの部分ですか。

中島 この、老女ものの自然に身に憑いたものが身体の内部から出て老体の表現ができるという部分を考えていたのです。
お能は、老女ものとか老いというテーマが作品としてございますよね。ダンス、特に私たちが研究プロジェクトとしてやったポストモダンダンスには、それがないのです。そのときに、老女ものがないダンスでは、高齢の方はどういうふうに踊るべきなんだろうと、ずっと考えておりました。
髙林さんが最後の研究会のときにお話しくださったことをもっともだなと思ったときに、ダンスではそれをどういうふうに考えていけばいいのか。そういう先がない。それこそ、『Trio A』ではないというふうに先ほどおっしゃいましたけれども、髙林さんがおやりになったのは『Trio A』なんです。でも、『Trio A』じゃないというふうに考える方が、今までは多かった。そのときに老女ものがないジャンルのダンスに、どう老女ものを……老いを入れていくか。

髙林 レイナーさんは、私とほぼ年が近いですよね。

中島 そうですね。

髙林 彼女が『Trio A』を作ったときは若いときでしょう。

中島 そうです。

髙林 今もそれをずっと延長線上に置いてやっているんでしょう。

中島 そうです。例外的にですけれども、そうされています。

髙林 いや、例外じゃなくてそれでいいんだと思います。そのときに、四〇のときの『Trio A』と、七〇になった『Trio A』は違うはずです。同じことをやっていても違うはずなんです。それが老いの心ですよ。自分が老いの年になったときに、自然に出てくるものが老いの心だと思うんです。だから、老女ものだってそうなんです。ある程度の年齢の域まで行かないことには、老女ものは表現できないんです。ですから、若い人が謡ぐらいで老女ものをやりますけれども、これは見られたものじゃないです。それは作り物ですから。

中島 そうですね。

髙林 見られないんです。その人がまた七〇ぐらいになったら、これはもう老いの境地へ、もし順当に育った人だったらそこまで進歩しているはずですから。そのときは何も考えなくても老いができる。それが老女ものだと私は思っている。ですから、若い者が強いて老いの風貌、風体をまねしてする必要はないというのが、私が最後に言いたかったことだったんです。

中島 そうですね。

髙林 ただ、いきなりその年になったからといってできるわけじゃないのです。ずっとの積み重ねがあって、その年までいったときに自然にできる。

中島 そうだと思います。

 

<ダンサーとの関係性>

中島 ちょっと話題が変わって申し訳ないのですけれども。今回みさこさん以外にも、西岡樹里さんや神村恵さん、ボヴェ太郎さんとか桂勘さんなど、いろんなジャンル、いろんな世代の方が参加されていらっしゃいましたが、他のダンサーさんの踊りを、またその関係性を、どういうふうにお考えになっていらっしゃいましたか。例えば、お能だと世襲制や師弟関係、流派、そういうもので人間関係がきちっとありますよね。ある種の上下関係というか。今回はいろいろな方が集まったちょっと変わった場所だったので、どんなふうに他の方をご覧になっていらっしゃいましたか。

髙林 私はある意味で非常にうらやましいんです。皆さんは自分で選んだ道です。私らは箱の中に入れられているわけですよね。能という箱の中に。外から入ってきたんじゃなくて、生まれたときからガラスの箱の中に生まれる。ですから、外の方から見れば伝統のあるところに生まれてきて、その箱の中にいて、それをつないでいくという使命が与えられてうらやましいと思われる方もあるかもしれませんけれども、逆に自由なことができません。自分で選んでそれをやるということ、自発的にするというのと、そうやって決められてやっているのとでは全然違う。だから、あの五人の人、それぞれが自分で考えてやっているのは、ある意味じゃ非常にうらやましいんです、私にとっては。
ただ、ちょっと私が残念に思ったのはあの、(ボヴェ)太郎さんだったかな。太郎さんが、能もどきの動きをしているでしょう。それはちょっと私はあまりうれしくないんです。

中島 そうですか。どうしてそう思われるのですか。

髙林 能もどきのものをやるなら、能をちゃんと、しっかりちゃんとした人から能を習わないといけません。例えば、『Trio A』でも、ビデオか何かを見てそれをまねしてやるんじゃなくて、マノーさんみたいな大事に育てた人から直接指導をしてもらう。それは能のお稽古も同じことじゃないですか。それがあった上で、自分の『Trio A』を作り上げるわけでしょう。だから、その分野のものをちゃんと伝えられる人から習って、それから自分のものにするのはええですけれども、なんかちょっと中途半端ではないでしょうか。まだ見てませんから言えないですけれども。

中島 ボヴェ太郎さんは、能を習わないというところに一つ可能性を見ているようです。

髙林 そうですね。でもそれでは能の本質は見えないです。やっぱり体験知は、十分に能を持っている人から話を聞かないと得られません。

中島 そのお話は先ほどの<見ること>とつながるように思います。それこそボヴェ太郎さんは非常に沢山お能を見ていますし、他の方もびっくりするぐらい知識やこだわりをもって、見ていらっしゃいます。だから、見る訓練はものすごくされている。でも、習わないということは、はっきりとお決めになっているようなんです。その先ほどの演者と後見、観客の関係もそうですけれども、見るということをどういうふうに考えていくかというのが、観客論の延長としてダンスの分野で問われています。
例えば、自分で踊るのではなくて、誰かが踊るのを真剣に見る、観察する。髙林さんがお稽古場であれだけ見ていらっしゃるのは、ほとんど踊っていらっしゃるのに近い。私自身は、見る力とはそういう力だと思うのです。その見るということが、例えばお能の分野に入ったとき、いい能を見られる人がいるからこそのお能だという部分もあるかもしれないと思うんです。素人で行っても、本当のお能の良さというのはやっぱり分かりにくい部分があると思います。そのとき、見ることの重みは能の分野では大きいと私は考えています。

髙林 それは能に対する一般論です。

中島 そうですか。

髙林 私は能は見せるものじゃない、やるものだと思っています。でも、見る人は勝手に見たらいいんです。見た人が何を感じるかということも大事なことです。けれども、能というものの先入観みたいなものを持たない人にも感動を与えるようなものを、舞台の上でやらないと意味がないんです。例えば、『伯母捨』なんて2時間かかるわけでしょう。それを能を見たことがない人が初めて見たときに何を感じるかということがものすごく興味のあるところなんです。

中島 そうですね。

髙林 現実に私が東京で『伯母捨』をやったとき、能を初めて見に来た人がいた。お友達に連れられて来たんです。その人がどういう感想を持ったかというと、また見たいと言ったと。ほとんど動きのないようなものを2時間見せつけられて。で、退屈するのでなく、2時間という時間を忘れていたと。全然感じなかったと。それが能だと私は思っているんです。そういう感動を与えるのが能の舞台です。何にも知らない人にも感動を与えられる。それはどうしたらできると思いますか。

中島 分からないです。

髙林 見せようという気持ちを持ったらいけないのです。見せてやるという気持ちを持ったら駄目です。自分がやっていること、やることに集中していたら、それができるんです。つまり作ったものじゃないからです。レイナーさんの『Trio A』だって、今できたものじゃないでしょう。

中島 1960年代に作られています。

髙林 でしょう。それだけの深みが、出ているはずです。それをみさこさんにしたって、恵さんにしたって、初めて習ったわけでしょう。

中島 そうですね。神村さんだけはビデオで前に踊っていらっしゃいますが、直接振り付けを習ったのは皆さん初めてですね。

髙林 マノーさんですが、彼女に生で習ったわけですね。それぞれ全然違っただろうと思うんです。それだけ長年いろんな人が手掛けてやってきたということは、知らず知らずのうちに深みができているわけですよ。

中島 それは見るほうがということですか。

髙林 いや、やるほうが。

中島 やるほうが。

髙林 作品としての深みです。作られた新しいものじゃなくて。あちらこちらに古び(古美)が出てきているはずなんです。だから、私らの能もそういう古びがついてきているものですから、今の平成の感覚で変な改変をしたらいけないと思っています。それがさっきの太郎さんに対する私の評なんです。

中島 なるほど。

髙林 何百年という歴史があるもの、それがどうしてこういう形で固まっているのか。そのことは、やっぱりそのままの形でやらないと分からないことです。よく今の時代に即したものをといって、古典を改変する動きや運動がありますけれども、それは意味がないんです。

中島 難しい部分だとは思います。

髙林 時の流れというものは、つくってつくれるものじゃないわけですわ。実際の時間の経過がそれをつくり出すのでしょう。今いくら私が昔のしきたりがどうやというたって、やっぱり食事だってナイフとフォークでも食事するわけじゃないですか。昔なら考えられないような食材も今食べているわけじゃないですか。

中島 そうですね。

髙林 それが自然になったわけ。やっぱり平成の空気、今は平成も終わろうとしていますけれども、その空気の中に生きているわけですから。どんなに頑張ったって、その時の流れというものは逆らうことはできないですからね。だから、人為的に時の流れをつくることはないでしょう。

中島 うーん、難しい。私は、これはすごく難しい問題だと思っています。お能ではなく日本舞踊でも、伝統と新作の問題はいろいろ異論がございます。時間の流れがあるのに変えようとしないものと、時間の流れに沿って変わっていくものと、その違いをどう考えたらいいのか。伝統の舞踊は伝統の舞踊として残す。ただ、それが形骸化していく流れはどうしてもあって、時間の流れに沿うためには何かしら変わっていかなきゃいけない。ただ、それをどこまで変えるのかというのは難しい。

髙林 究極はそのどこまででしょうけれども。

中島 難しい。

髙林 私は両立しないと思いますよ、新作の世界と旧作を守っている世界とは。これは両立しないと思います。1人の人間が両方できるとは思わないです。

中島 そうですね。そうかもしれない。日本の場合は、新作において、ジャンルの中での新作と、別のジャンルに行ってしまった作品として見られる、二つの可能性がございますね。

髙林 あります。

中島 例えば、日本舞踊で新作を出すと、結局、その日本舞踊の伝統の動きの中で組み換えたものができる。そうではなく、日本舞踊のつもりで作られた作品でも、別のジャンルの作品になってしまうようなものもある。でも結局、日本舞踊のかたはそういう作品は見ないし、日本舞踊とは認めない。そのあたりの新作の、新しさの歴史観という問題はあると思います。ただ、私は、その方向性は両方ないと文化が発展していかないと思うのです。ただ確かに、同じ人が両方やるのというのは難しいかもしれない。

髙林 難しいですね。でも、歌舞伎の人はよくいろんなことをしますが。

中島 坂東玉三郎さんなどですか。

髙林 シェークスピアをしたり。

中島 そうですね。

髙林 やりますけれどもね。

中島 市川猿之助さんは歌舞伎で『ワンピース』を作ったり。

髙林 それはどうなのかな。私は歌舞伎の内側に入らないから分かりません。能の場合ですと、私は能の中にいます。狂言も含めて能の中にいます。能楽師や狂言の人も含めて。例えば、萬斎みたいな人も含めて見ています。他のほうで腕を上げてくると、やっぱり能のほうの腕が落ちています。

中島 分かります。

髙林 萬斎さんが狂言をやると、能の狂言じゃない雰囲気が出ますね。単なる笑い劇、笑劇の雰囲気しか出なくなってきます。能のもうちょっと古典的な匂いはどこへ行ったのだろうなと思います。

中島 それは感じます。踊りの分野でも、オープンなマインドのかたが別ジャンルの作品を作った後に古典をもう一度踊ると、すぐわかってしまう。なぜそうなるのか。苦しいところですけれども、やっぱりそうなってしまう部分があります。

髙林 能のほうで観世寿夫というカリスマ的な人がいたでしょう。あの人が二〇代、三〇代ぐらいのときには、他の世界に憧れていろんなことをしています。奥さんがああいう方でしたから余計ですね。ところが、五〇代で亡くなる直前に、どうもそれは間違っていたということに気が付いたんです。能はやっぱり能なんだ、他のジャンルとは違うんだということに気が付いたみたいなんです。初めの頃はギリシャの古典劇も能も一緒だということをしきりに言っておられたんですけれども、ある時期から言わなくなったんです。ギリシャの古典劇みたいなものをされなくなったのです。それで、もう間もなく亡くなったから、それがどういう意味だったかというのは何も聞きとがめていないんですけれども。私は観世寿夫さんの七〇になったときの能が楽しみやったんです。
今はああやっていろんなことをやって、いかにも分かったようなことを言っておられるけれども、自分の体が果たして満足に動かなくなったときに、能をどうやって舞うのかなというのがものすごい興味があったんですけれども、そこまで行かないうちにさっさと逃げてしまいました。結局、分からずじまいなんですけれども。その晩年にちょろちょろっとこぼすというか、心境を言われた言葉は意外と伝わっていないんです。私はどういうわけか、その言葉を信じているんですけれども。あの人はいろんな書き物を残していますけれども、おそらくその晩年の考えをまとめ上げて書いたものはないんじゃないですか。世阿弥のいろんな伝承の中でも、やっぱり六〇ぐらいで書いたものは、今私が思っていることがそのまま書いてあります。それまでのものは、私はこんなことを書いてもええのかな、こんなことを信じてもいいのかなと思うことがたくさんあるんですけれども。でも、この私の考えに同調する人はまだ誰もいないんですよ。「そうなんです」と言ってくれる人はないんです。

中島 ただ、おっしゃっていることは私もわかりますし、見えます。舞台では見えますが、それをどう判断すべきかが分からないのです。同じような問題が、舞踊の分野で共有されているのですけれども、それをどう解決すればいいか分からないのです。ですので、特に若手舞踊家のかたにジャンルを超えるコラボレーションをしていただくとき、負担をかけてしまうことは認識していて、初めにお願いする自分の責任を感じています。可能性とともに、それだけリスクを負ってもらうことになりかねないとお話します。ただ、最終的にどのように出るかは、結局のところわかりません。

髙林 いや、それは結局、その人の持っている力です。年が若くてはなかなかその力は付いていないですけれども、ある年齢までにいったらその力が出てくると思うんです。そのときになら立ち返ることができるはずなんです。自分の本業であるものから派生していろんなことをしても。ある時期になったら、また元の本業に集中して戻ることができるようなところまで行かないと、役者としての人生ではないと思うんです。崩れて、それで終わったらその人はやっぱり敗北者です。

中島 そうですね。崩れてというふうに思ってしまったらそうですね。崩れたところからもうひとつ段が上がるところが必要なのだと。

髙林 途中で迷ってもいいんです。けれども、元に戻ればいい。戻られたらいいんです。年が若くても、ちょっとそれみたいなことが私らの目に映る人もいますよ。例えば、茂山逸平という人がいるでしょう。知っていますね。

中島 はい。お若いかた。

髙林 あの人、一時ものすごく崩れていたんです。

中島 そうなのですか。

髙林 でも最近戻ってきているんです。まだ四〇代、五〇前でしょう。ですから、それは必ずしも年齢じゃないですね。いろんなことを見てきたから、かえって戻れるということもあり得ますから。

中島 そう思いたいところは私自身もございます。

髙林 その戻るということは、やっぱりその人の本当の力ですよ。教えられて戻れるわけじゃないと思います。

中島 私ももともと日本舞踊の世界におりましたので、今、別のところにふらふらしているという感じはどこかにあります。ただ、舞踊家としてではなくて、研究者もしくはそういった作品を作っていく側として、できることはないかを考えています。伝統芸能の面白さというのが、私の中で大きな位置を占めていて、老いという美意識も日本の伝統芸能のひとつの特徴だと思うんです。そういった美意識が存在するのは他のダンスの分野にはありません。
私は小さいときに、「まだ若いから」というふうに言われて窘められることがよくあったのです。五〇、六〇歳にならないとできない、そういう許しもののような曲があって、踊れるけれども踊れないという葛藤が、特に二〇代ぐらいの時にありました。自分の中で理解はしているものの、あとこれからの何十年を、どういうふうに過ごそうかと悩んでいました。
舞踊家としてではなくて、踊りを研究し、どういうふうに作っていけばいいかと考えていました。そこでアメリカのニューヨーク大学に勉強に行ったのですが、そこでポストモダンダンスの今のコミュニティ(ニューヨークのダウンタウンダンスとされるコミュニティ)に出会いました。ただそこで、そのダンサーさんたちがもう二十八歳になっちゃったからこれからどうしよう、もう年を取っちゃったからダンサーはできない、という話をしていたのです。私はまだ若過ぎて踊れないのに、なぜ周りの人は年を取ったら踊れないという話をしているのだろうと。そのギャップを感じたところから、老いと踊りの話は出てきているんです。
やはりその違いは、日本の伝統芸能で長く共有されている、芸術家の生涯をかけての訓練と、それに伴う芸の在り方から由来すると思います。様々なジャンルを超えて活動されるにしても、生涯の中では戻ってくるというのでしょうか。ひとつの演者の生涯の形として、その芸の高まった在り方があり、そういう在り方には何十年の時間が必要で、それが最終的に老いという形にまとまる歴史があると思うのです。
そういう長いスパンでダンサーを、舞踊家を見られるということを、私はすごくラッキーだと思っています。ただ、それは他のジャンルでは今までほとんどなかった。特に日本以外の舞踊のジャンルではなかったわけです。最近になってイヴォンヌ・レイナーさんが踊り続けるようになったり、バレリーナは引退したら踊らなくなってしまうことがほとんどでしたが、最近は高齢でも踊るようになったり、そういう変化がヨーロッパ、アメリカでも、ここ五〇年で起きているのです。
そういう形で生涯をかけて作品を作っていく、踊りを踊っていくことへの評価が、<老い>という感じ方と一緒に今注目されているのです。私は老いの話をするだけではなくて、一人の芸術家の訓練の、生涯をかけてのそういった経緯というのでしょうか、初めの稽古のところから年齢を経てきて、その中で何ができるかというところにやっぱり行き着くと思います。ですから、必ずしも年齢や高齢化についてだけ話しているわけではなく、それまでの経緯が大切なのです。先ほど髙林さんがおっしゃったように、その人の力というのでしょうか。ジャンルはどうあれ、その芸術家の力がそれだけの時間を要す作品を作ってきたとき、そこに老いという話が出てくるということです。その関心が、私の老いと踊りという研究の中心にあります。
渡辺保さんがよくお話されますが、2~3年でできるような作品ではなくて、何十年かけないとできない踊りだからこその良さなのです。必ずしもその踊りが高齢者と直結するという話ではなくて、おっしゃるように、その人の立ち方、その人の力がそれだけの稽古と時間をかけて出来上がってきた、その在り方としての芸が、美意識である<老い>と繋がるということなのです。他のジャンルとのコラボレーションや芸道の考え方でもそうですが、それまでの経緯なくしてこの舞台だけを語るという話ではないのです。

髙林 そのとおりです。だから、その老いのテーマというのはやっぱり終点がないです。それから作ってできるものじゃないです。片山幽雪という観世流のシテ方の人が、世阿弥の650年記念に、みんなで世阿弥について思うことを書いたエッセーを集めた本があるんですけれども、それに書いておられる。そのとき既に八〇近かったですかな。私も一文書いてくれと頼まれて書いたのです。私は、ずっと一途にやってくれば、自然に老いの表現ができる。作らなくても老いというものが身に付いているというふうなことをテーマに書いたんですけれども、片山さんのほうはまだまだこれから勉強だと書いておられる。
勉強してできるものは、私は老いじゃないと思うのです。勉強はしないといけないんですけれども、老いを勉強するんじゃなくて、自分自身を磨くことをずっと勉強していくということは必要でしょう。老いの風体を勉強するという問題じゃないというふうに思うんですけれども。

中島 そうですね。ある種の生き方が形となって出てくるもので、それは作って見せるようなものではないですね。

髙林 そうですね。見るほうの人もさまざまですからね。歌舞伎みたいなものを好む人もいるでしょう。能みたいなものを好む人もいるでしょう。能の中でも、私みたいな全然毛色の違ったものに興味を持つ人もいるでしょう。ですから、万人に向くようにということはちょっと無理かもしれませんね。

中島 最後に一つお聞きしてもよろしいですか。今回1週間、こちらの『Trio A』の公演に参加していただいたのですが、もし今後の髙林さんの活動に何かしらの影響があるとしたら、どのようなことがございますか。

髙林 どういうふうに言いましょうかな。ジャンルが何であっても、自分がしていることに自信というか、それなりの意義をちゃんと当てはめてやれば、どんな世界であっても同じことを見ている人に伝えることができると思います。技術的なこと、部分的な技術の良しあしじゃなくて、やっぱりそれに取り組んでいる姿勢というものが大事なんでしょう。ジャンルがどれだけ違っていても、そういう心の問題が、どんな舞台でも、能の場合であったって、ダンスの場合であっても、必要とされているんじゃないかなというふうなことを感じます。

中島 そういった思いが強くなるかもしれない?

髙林 ええ。私はもともとそういうふうに考えていますから、間違っていないなということをもう一度強くしたということは言えると思います。間違っていなかったということ。初めのほうに私が言ったように、私は他の世界とあまり縁がなく今日まで来ていますけれども、それが間違っていなかったという思いを強くできたと思います。どの世界であっても自分に自信というか、そういう持っているものがあれば、どんな表現の仕方であってもいいんだなということです。能であってもダンスであっても、形が違うだけであって、自分の体でそういう芸術的なものを表現することはできる。おそらくうわべだけでは伝わらないものができてくるのではないですかね。

中島 そのような心持ちの変化というか、確信を持たれた。

髙林 確信はありましたね。

中島 変化のほうもあるかもしれない。

髙林 むしろ変化はないです。今までどおりでいいだけで、間違っていなかったという思いを強く持ちました。

中島 分かりました。

髙林 『Trio A』のときに、マノーさんが言ったと思うのですけれども、お客さんを、客席を見るなと言われましたよね。

中島 見ちゃいけないというのはあります。

髙林 それは大事なことだと思いますよ。だから、お客さんを相手に自分が体を動かしているんじゃなくて、自分のために自分の体を動かしているという考え方でしょう。それが一番私は大事なことだと思います。

中島 そうですね、他の人のためではなく、自分のために踊るものが素晴らしい踊りになることが踊り手の理想かもしれません。お能やレイナーさんの作品をめぐって、実に有益なお話を伺えて、とても光栄でした。本日はどうもありがとうございました。

(2018年2月2日、京都市内にて、文責 中島那奈子)

 

■高林白牛口二(喜多流能楽師)
1935年京都市生まれ。幼少より父高林吟二のみに稽古を受ける。1971年喜多流職分となる。1982年4月より、400年の伝統がある京都の喜多流の開示公演「喜多流・涌泉能」を続け、能楽の普及や伝統維持、後継者育成に尽力。初舞台1938年「飛鳥川」子方、1998年「卒都婆小町」、2009年「鸚鵡小町」、2012年「伯母捨」、上記の老女物を3番勤める。2016年「江口」を最後に「シテ」を舞う事より引退。