作曲家による自作ピアノ演奏が好きだ。例えばモーリス・ラヴェルのような作曲家であれば自作を演奏した音源が残されている。音質も荒く、ヴィルトゥオーソの卓越した指さばきが楽しめるわけでも必ずしもないが、そこには一級の技術と表現力を持つ現代のピアニストによる洗練された録音とは異なる独特の魅力がある。いわば、本質的でない要素がそぎ落とされて、構造と輪郭にまで還元された楽曲それ自体が現前しているような感覚があるのである。『Trio A(老いぼれバージョン)』の映像を見ていて、ふとそんな考えが頭をよぎった。

私は「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」開催期間中、映像作品の上映プログラムが組まれていた10月13日に会場に足を運んだ。その7分ほどの短い映像は、プログラムの後半、レイナーをめぐるドキュメンタリー映画『フィーリングス・アー・ファクツ』の上映終了後、やや唐突にスクリーンに写し出された。2017年に82歳を迎えたレイナーが、彼女の初期の代表作である「Trio A」(初演1966年)を踊る様子を記録した映像である。1ショットで撮影されたその映像のカメラワークは、引いた位置に固定されたカメラ・ポジションからレイナーの動きに合わせてゆるやかにパンするだけの簡素なものである。「Trio A」のレイナーによる自演としては、1978年に記録された著名な映像がある。白いスクリーンを背景にロングテイクでレイナーのパフォーマンスを記録するその映像と今回の「老いぼれバージョン」は、似ていると言えば似ている。にもかかわらず「老いぼれバージョン」の映像は、何か作品未満という印象を与える。その理由はデジタルビデオの無機質な質感のみにあるのではないだろう。そして、作品未満というこの印象こそが、本映像を感動的なものにしている。

その老齢ゆえ、レイナーの身体各部が動く幅は狭い。しかし、そのことがかえってそれぞれの動作の本質を、それらを考案した作者にしか表現できない仕方で──作曲家による自作演奏のように──可視化しているように思われた。しかし、それだけでなく本映像には、レイナーのパフォーマンスをサポートするアシスタントの存在が写しこまれている。例えば片足でバランスをとるようなポーズでは、アシスタントがレイナーのそばにやってきて手をさしのべる。あるいは、横に広げた両腕をバタバタと回転させながら一歩ずつ足を進める印象的な動きのときには、スッと歩み寄るアシスタントに対して、「支えなしでやってみせるわよ」とレイナーが眼で合図を送ったりする。そのようにして「Trio A」の振り付けに対して自らの身体を一致させようとする様子がそのまま記録されているところが、本映像に作品未満という感覚を与えると同時に、それを感動的なものにしている。その極めつけは、どうやら振り付けを忘れたらしいレイナーに対してアシスタントが動きを示す瞬間に訪れる。すっかりポストモダンダンスの古典となり、これまでに繰り返し再演されてきた本作品は、この瞬間にレイナー本人に対して決定的に外在的なものになっている。作品のことをもっとも熟知しているはずの作者が、初演から半世紀を経て、外部から作品ににじり寄っていこうとしているのである。

したがって、ここで自説をなかば翻すのだが、この映像においてレイナーは、作品に対してもっとも正統的な解釈を付与することのできる作者という特権的な位置にはもはやいない(しかし、すでに著名になった作品の作者による自演は本来的にそういう性質を帯びるのではないだろうか)。そして、作品と作者が互いに対して外在的であるというこうした性質は、「Trio A」の振り付けがもともと宿していた性質とどこか呼応しているように思われる。すでに言及したように、「Trio A」には両腕をバタバタさせるような特徴的な動きが繰り返し現れる。その一連の動きは、私にとっては、歩きはじめたばかりの幼児が、おぼつかない足どりをおぎなって体のバランスをとろうとするときの動作に似ているように感じられる。身体各部の協調がまだ確立されていない幼年期に束の間現れる身体性に似た何か、身体が自らに一致していないような身体性が、「Trio A」を真に歴史を画する作品にしているように思われるのだ。レイナーたちが創始したポストモダンダンスは、日常的な動作をダンスの構成要素として取り込むことで、因習的な身体表現からダンスを解放した、としばしば指摘される。そのことを、均整のとれた身体表現に対してその幼年期を回復させる試みとなぞらえてもよいだろう。だとすれば「Trio A(老いぼれバージョン)」においては、幼年期と老年期、完成された身体に対して反対向きに遠ざかった二つの身体性が、互いに対して外在的でありながら、両極から一致を見ようとする瞬間が記録されているのである。

編者注:「Trio A(老いぼれバーション)」はNew York Times のサイトで見ることができる。
■門林岳史(関西大学文学部准教授)
専門はメディアの哲学、映像の理論。著書に『ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?──感性論的メディア論』 (NTT出版、2009)、訳書にマーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオーレ『メディアはマッサージである──影響の目録』(河出文庫、2015)など。