今回パフォーマティヴ・エクシビジョンという企画のなかの『Chair/Pillow』に参加して、そもそも「老い」は何かと問うことから広がる思考の世界のおもしろさを、改めて感じました。

ワークショップの1日目は、『Chair/Pillow』の振り入れ、反復練習を行いました。「老い」というテーマが掲げられているエクシビジョンであるのにもかかわらず、「老い」についての説明がほとんどないまま1日目を終えて、「老い」と作品のつながりについて戸惑う参加者の姿が見受けられました。しかし、ここでのなんで「老い」なんだろうという戸惑いは、今回の「老い」というテーマを参加者のそれぞれが思考する最初の手がかりになっていたと思います。そして「老い」に対するイメージをそれぞれが持っているからこそ(それはおそらく「老い」というテーマの大きな特徴ともいえるのかもしれないです。)この戸惑いに直面しえたのだと思います。

ところで、今回のエクシビジョンで「老い」について言及している限られた情報に、冒頭のキャプションがありました。その記述には、人間の「老い」、作品とその展示と「老い」をとらえる2つの視点が提示されていました。

私はこのキャプションに示された2つの視点を参考に『Chair/Pillow』のワークショップの体験を振り返り、以下のように「老い」について考えました。

 

*人間の「老い」

『Chair/Pillow』は座る、立つ、投げるといった基本的な動きを一人ひとつの椅子と枕が並べられた小さな空間で何度も繰り返すダンスでした。回数を重ねるごとに変化する自らの身体、とくに「疲労」していく身体が観察しやすいなと感じていました。老年期の身体機能の変容(=身体のままならなさ)は,加齢プロセスにおいてだれもが避けることのできない側面であるため、今回時間の経過とともに観察された「疲労」(=身体のままならなさ)という視点から「老い」を考えることにしました。すると、以下の3つがいえるのではないかと考えました。

①長時間継続することで,できること/できないことが変わっていく「老い」。
動作を何度も繰り返す踊る時間の枠内で、体が疲労し、飽きてくると、新しい意味や動きの機微を見出そうとする様子が自分にも他の参加者にも見られました。

②突然身体が変化して、回復するという一時的な体の「老い」。
踊っている最中の疲れとは別にダンスを終えたのを境目に一気に疲労を感じました。もちろん、暫くすると疲労はある程度回復します。途切れずに過ぎる時間に沿って疲労するのとは異なって、突如として現れ、そしてまた消える身体の変化への気づきの体験は、突然自らの老いた姿を鏡でみて驚くというような「老い」の一側面と重なるところがあるのかもしれないと思いました。そういう意味では、ここでの疲労は、「感じた」よりも、「思い出した」「気づいた」という表現のほうが正しいのかもしれないです。

③ダンスに影響を及ぼしているダンスの時間外の「老い」。
上の二つを考えていると、中学生や高校生の頃よりも疲労を感じている、つまり、年月を重ねるごとに身体が疲労しやすくなっているのだと感じることを思い出しました。ダンス内部での時間の経過だけではなく、ダンスではない日常生活における時間の経過に伴う身体の変容と地続きに、ダンスする身体を捉える視点として興味深いと思いました。

 

*作品・展示と「老い」(古くなること)

今回は、『Chair/Pillow』という1960年代の老いた(古くなった)振り付けに対して、春秋座で、現代日本の若者が再演を実施しました。この再演を通して、老いたパフォーマンス作品が再演されるとき、老いたまま保存されるのではなく、新しい位相で状況を軽やかに生成していく、キャプションにあるところの「蘇生」の可能性を見た気がします。

今回は、さまざまなダンスの経験を持った/っていない人々が参加していたのですが、全員で全く同じ振り付けを繰り返しているのに、逆に参加者それぞれの経験が作品の内部で浮き彫りになってきたことが興味深かったです。これは推測でしかないのですが、ひとつに『Chair/Pillow』を含め、今回のパフォーマティヴ・エクシビジョンで展示されていた振り付けたちは、コンセプチュアルな部分も目を奪う見た目の魅力という意味でも、どんな踊り手もはみ出すことのできないパフォーマンスとしての強度を持っていたからではないかと思います。さらに、今回はその振り付けの強度だけではなく、ドラマトゥルギーの構成も大きな存在を発揮していたのだろうと思います。結果、私には、作品はそれ自体として一定の強度を保ちつつ,それが上演されている状況が変容しているように見えました。今回の作品と展示の方法を通して、参加者のその時そのひとの文脈においてパフォーマンスされることに支えられながら、変容しつつ、上演・展示され続けることに耐えながら作品としての振り付けが永続する可能性を垣間見たのかなと思いました。

 

上に述べた2つの側面は互いに独立しつつ、構成としては似た内容を示しているのかもしれません。以前のメールで、カッコでくくった、『Trio A(老いぼれバージョン)』の映像が扱っていた「老い」や、『Trio A』の能のひとの存在の示す「老い」は 、ただ、個人の経験にとどまらず,それをパフォーマンス作品・展示として提示している、エフェメラルな概念だったのだと、中島さんのご説明を受けて改めて考え直しました。

 

■松本奈々子
1992年大阪生まれ。3歳から20歳までバレエを踊る。2012年より、バレエをやめたからだを使ってパフォーマンス作品を制作し始める。2013年にパフォーマンス集団、チーム・チープロとしても活動を開始。チープロの活動の他に,留学生とつくる絵本のおはなし会、「海をこえて空でつながるプロジェクト」(Vol.1)など。その他,大学院生として生涯教育の研究を行っている。