老い/自由への問い

一年間この研究会に参加して、「老い」という概念の手強さを感じている。たとえばバレエや、つい最近日本ではじまった「Dリーグ」のような視点に立てば、「老い」とは「必要な若さ」を喪失することにほかならない。他方、日本の伝統芸能の視点は真逆で、「老い」とは「芸」の成熟そのものなのだ。けれども、この二つの対極的な考え方の中間に、実は無限のグラデーションがある。「〈今までできていたこと〉ができなくなること」と、「〈今までできなかったこと〉ができるようになること」という二元論では説明不可能な、きわめて具体的な事例と問いが、多様に周囲に存在している。それでいながら、「老い」自体はあまりに日常的なコトバなので、その都度本当は何が問題となっているのかが、ともすれば見えにくくなってしまうのだ。

この一年を通じて、私が最も印象に残ったのは、亡き日本舞踊家の花柳寿南海さんが、資料映像のなかで「自由という言葉は使うのが難しい」と語っていたことだ。そして、最後の研究会で話をうかがった中国の振付家メイファン・ワンさんも、年長の世代の革命バレエのダンサーたちとの協働作業を通じて、「踊ることにおいて「自由」とは何なのか」を、たえず問いつづけてきたのではないかと感じた。西欧近代の文脈では、「自由」とは、普通「~からの自由」という形式で捉えられる。だが、「老い」を「自由」と同時に思考しようとすると、結局のところ、「自由」という概念もまた、「老い」とまったく同質の「手強さ」をはらんでいるのではないか、と思われてくる。

おそらく「演劇」からは、「演劇」だけではこうした問いは見えてこない。「身体」という制約が絶対的で厳密だからこそ、ダンスは「老い」への厳密な問いでもあり(それゆえ)「自由」への厳密な問いでもありうるということ。そして、そのことの本質的な手強さに気づけたことが、私自身のこの一年間の最大の収穫であった。引き続き、この点について私なりに思考を深めていければ、と思う。

森山直人